原子力専門家の友人が関与したと聞く論議で引用された本があった。
日本原子力学会事故調査委員会最終報告 丸善 2014/3/11
福島第1原発事故の全貌を網羅し、原因を分析し、対策を検討し、提言を行った力作だった。日本原子力学会の本物の専門家五十数名の調査委員会が、分科会で調査検討し執筆したものだ。原子力技術者あるいは学会として反省すべきは猛省している。主義主張を離れた科学的な書だ。私は完全に納得し、枝葉末節は別として本書で事故の全貌は隈なく解明され提言にまでまとめられたと感じ、5つ星の書評をAmazonに送った。勿論将来ロボットが内部を探査したり原子炉を開けてみたりしたら小修正が必要になることもあろうが、そもそも科学は、定説+普段の小修正 で成り立つ。
本書には欠点もあった。(1)基本的に原子力技術者を想定読者としている。圧力容器はRPV、過酷事故はSAと2-7文字の略号が百種類ほど出て来る。素人は覚えきれなくてその度に巻末の略語表を参照しなければならない。D/W=ドライウェルって何だっけと思い出せない人は、図示も親切な説明もないから別資料で思い出さないと理解が飛ぶ。(2)分担執筆の短所として主張が異なる部分がある。例えば1号機の水素爆発の水素の漏洩経路は「現時点で特定することは困難」(p21)とする一方で「格納容器フランジから漏洩した....と考えられる」(p94)とある。分担執筆者の見解の相違が統一を欠いているが、幸い些事である。(3)本書は震災3周年の日に出版された。年月が経ったからこそ多くの知見が盛り込めた面もあろうが、もう少し早ければもっと社会のためになったと惜しまれる。
現場は献身的に努力したが、消防車による注水や格納容器の過圧力を抜くVentがなかなかうまく行かぬ様子が臨場感をもって記述されている。それが必要になるような事態が起こるはずがないと、設備化も政府から言われたから仕方なく形を整えたレベルと私には見える。消防車からの注水は色々な分岐があって炉心には一部しか到達していない。電源があれば弁操作で漏れを止められたのだろうけれど、非常時向きの設計にはなっていない。Ventするにもあちこちの弁を操作することが必要で、それが中々出来なかった。2号機は遂にVent出来ぬうちに格納容器が破損して放射性物質飛散の最大の原因となった。2基が1本の煙突を共有する節約設計のため、3号機のVentが4号機に回り込んで水素爆発を起こした。1号機・3号機の水素爆発もVentが原因の可能性ありとすれば設計をケチった咎である。
「冷却が止まったら即刻消防車で海水でも泥水でも注入せよ」と1行Manualに書いてあったら過酷事故にはならなかったと私は信じてきたが、(a)その後上記のように消防車の水は一部しか炉心には届かなかったと知った。(b)東芝と動燃の出身で東大特任教授の諸葛宗男氏は週刊新潮2月5日号に「なにがあっても注水。...消防ポンプででも」とManualにあったと発言した。(c)しかし本書では、非常時Manualは無く、また全停電で全冷却が止まるような「有り得ない」非常時への教育訓練はなかったと書いている。矛盾するが多分どれもみな正しい。結果的にManualに従った操作があったようには見えない。少なくとも最優先で消防車で注水したとも見えない。初期なら建屋内で弁を閉めて回ることもできたはずだった。
本書を読むと、安全対策は社運に関わる重要経営問題という意識は希薄で、「やりました」と言える最小限をよしとする遵法問題と捉えていたように感じる。日本の大組織の長は技術俯瞰力に弱い風土もあって、原発を原爆と同一視する原発反対運動に対し「原発は絶対安全」と頑なに主張し続けねばならなかった歴史が、自らの安全盲信を生んだのであろう。
「有り得ない」非常時の検討、設備化、教育訓練が疎かだったことが、過酷事故の本質的な原因であると改めて私は思った。だからこそ、日本の技術者が馬鹿でない限り、同様な過酷事故は再び起こるはずがない。私はだから(何かメリットがあれば)原発の塀の傍に住むことも厭わない。
再びの原発事故よりも国の財政破綻で生活が脅かされる確率の方がずっと高い。「今のままでいい」という選択は無く、なりふり構わず経済成長を求めざるを得ない。「原発反対という贅沢」を言う余裕は無い。 以上