歴史教科書と外交
韓国と中国から日本の歴史教科書に(例の扶桑社の教科書だけでなく全教科書にわたって)数十項目の修正要求があったのに対して、扶桑社が9項目の訂正を「自主的に」申し出て、それで幕引きすべく政府が動いているという。愚かなり外務省!! そんなことで決着がつくものか。教科書は文部科学省の職掌だが韓国・中国とのやりとりは外務省だそうだ。
官僚の考え方は次のようなものであろう。
1.教科書は国内問題、外国に影響されることはあってはならない。
2.権威ある検定プロセスに合格した内容の変更は文部科学省の失点。
3.しかし先方もいきりたっており、ゼロ回答では決着出来そうもない。
4.文部科学省の失点にならぬ譲歩は、扶桑社の「自主的」修正しかない。それでも検定制度の権威に関わるが、その程度は仕方ない。
お上が、自らの失点にならぬよう業者に圧力をかけて「自主的申し出」をさせるのは大変汚い常套手段だ。多分国内問題だと押し切るべく抵抗した文部科学省が外務省に寄り切られて、こういう妥協策に至ったに違いない。但し自主的かどうかは専ら国内問題であって、外務省の仕事つまり韓国・中国とのやりとりには関係ない。私が指摘したいのはこの外務省の対応が良くないことである。簡単化すれば次のやりとりと等価である。
1.A社は、B社から被った迷惑に対し5千万円の損害賠償を求めた。
2.B社の営業部長は、A社の要求は不当かつ無理と鏤々説明した上で、
3.損害賠償金は出せないがA社が現実に困っていると言うから、誠意の表現として1千万円出精値引きさせて頂きたい、当方もここまで譲歩するのだからこれで何とかご容赦をと、部長が土下座して頼んだ。
こういう形の折衝は日本では日常茶飯事である。通常のコースとしてはA社は、B社の事情も理解し、しかも部長が土下座までしたからには、ここで突っぱねては友好関係にヒビが入ることを慮り、A社はB社提案を了承し目出度く一件落着となる。こういう浪花節が通用する非常に珍しい国が日本である。一歩日本を出て国際折衝の場に臨めば、浪花節はその威力を失う。日本ではハードネゴで当面勝っても事を荒立てては長い目では損という経験則があるが、国際舞台では違うからである。
国際折衝では、上記の1.2.は同じでも3.以下が違って来る。
1.A社は、B社から被った迷惑に対し5千万円の損害賠償を求めた。
2.B社の営業部長は、A社の要求は不当かつ無理と鏤々説明した上で、
3.もしA社の不当な要求を認めるとするならば、B社も実はA社から迷惑を被っている面があり、同じ論理でA社にやはり数千万円の損害賠償を求めざるを得ないとB社は主張し、双方がその妥当性で激論を交わし、
4.最後にB社が、双方の主張の差額分として1千万円の出精値引きを提案し、合意し、ニコニコと作り笑いして握手して別れる。
このように国際舞台では力と損得勘定の中で妥協点が決まる。反撃材料を持たないと尻の毛まで抜かれる。歴史教科書で言えば、日本の教科書ばかり議論しないで韓国・中国の教科書も俎上に載せて両方並行に議論すれば、攻守がバランスして妥協の余地が生まれるが、攻められる一方では満額回答以外に解決策はない。両方俎上に載せる理屈は充分あるはずだ。
外務省の優秀な人材がこのことに気付かぬはずはないから、なぜこんな愚策に出たのか理解に苦しむ。それとも今回は国際オンチの文部科学省のご意向のままにやってわざと紛糾させ、ホラ駄目でしたね、ということで外務省の真価を見せつけ、最近の不評を挽回する高等作戦か。
私の知る数少ない外務省関係者は何れも、日本の文化と知性を代表する立派な人達である。しかし外務省は機能しているのか? 日常業務は確かにしている。お祭りの奉賀帳のようなODAなら誰にでもできる。しかし過去10年でも20年でもいい、これは外交の成果だという国力以上の得点が一つでもあったら教えて欲しい。通産省や郵政省の実績が思い浮かぶのに対して、あるいは韓国・中国さらには北朝鮮の外交成果を指摘することは出来ても、日本の外務省の業績が思い出せない。事勿れ主義の組織になってはいないか。機密費もいいが成果を出して貰いたい。 以上