1カ月前の旧聞だが、岐阜城に登って来た。某研修会が珍しく岐阜であり、その機会を逃すまいと早目に到着して、仕事に励んでいた仲間には申し訳ない観光を楽しんだ。学生時代に一度岐阜城に登って以来だが、当時の記憶はほとんど無い。
大学入試で空欄に「岐阜城」を埋める日本史の問題があった。すぐ岐阜城と判ったのだが「阜」の字がどうしても思い出せなくて「岐フ城」と書いて出した。5点ほど失ったかも知れない。「岐阜」くらいにしか使わない漢字だ。その因縁で学生時代の帰省の途中下車で登った覚えがある。
以来観光で岐阜を訪れたことは時々あったが、自由時間が充分無くて登る機会はついぞ無かった。長良川の畔に聳える金華山は街からは正三角形に見え、その頂上に天守閣があるのだから誰でも登りたくなる構図だ。長年私の中に欲求不満が蓄積されていたが、今回一挙に開放された。
下から見上げると金華山は急峻で高いが、実は329mに過ぎない。しかし内陸にも拘わらず不思議なことに岐阜市の標高は低く、金華山の麓でも 20mほどだから標高差は3百米はある。岐阜は名古屋から続く濃尾平野の北端で標高は低いのだ。徒歩で登って登れない標高差ではないが、仕事の前に精魂使い果たしては仲間に申し訳ないと、ロープウェイを使った。それでも山頂駅から岐阜城までは登りがあったと誤解していたので、酷暑の中でノビないように帽子や衣服や飲み物に気を使った。但し登って見たらこれは杞憂で、ハイヒールコースだった。
岐阜城は周知のように、油商人からのし上がった斉藤道三が美濃を治めた稲葉城だった。道三が家督を譲った嫡子に討たれ、嫡子も急死した後、その子龍興が幼くして家督を継いだ。道三の娘濃姫の夫であった織田信長が道三の敵討と後継を主張して稲葉城を攻め、1567年に入城して岐阜城と改めた。井口と呼ばれていた麓の街も岐阜と改め楽市楽座で振興した。中国周の王が岐山から天下を平定した故事に倣ったもので、天下布武の印を以て天下統一の意思を示した。
信長は後に嫡子信忠を城主としたが、共に本能寺の変で急死した後は織田家と豊臣家の城主が続き、最後は織田秀信が受け継いだ。本能寺の変の後に秀吉が担いだ三法師が成人した姿だ。彼は関ヶ原の戦いで恩義ある豊臣側=西軍についたため敗れた。家康は岐阜城の廃城・解体を命じた。下って明治後年の1919年に、木造の仮天守閣(岐阜城では天主と呼ぶ)が建てられたが戦時中に失火で焼失した。1956年に鉄筋コンクリート3層4階の現在の天守閣が落成した。だから前回私が見たのもこれだったはずだ。
ロ−プウェイは大名屋敷・家老屋敷などがあったという岐阜公園から出発する。信長の屋敷跡を発掘中という看板があった。30分に1便のロープウェイを待つ間に周辺を散歩し、登山口の1つを見付けた。武士が登り下りしたに違いない急峻な石コロ道を少し登ってみて雰囲気を味わった。ロープウェイは急角度で一気に山頂まで上がった。
山頂駅で下車すると8の字の道が天守閣に続いていた。左側=西側の道は展望レストランを含めて尾根沿いに上下して行く。東側はより平坦だった。両方とも木陰に守られて酷暑は和らげられた。途中に看板があり、木下藤吉郎が少数の家来と共にここにあった薪小屋に火をつけてときの声を上げたと書いてあった。太閤記や大河ドラマにはそういう場面は多分無かったと思うが、若く働き盛りの藤吉郎が偲ばれた。
鉄筋コンクリートの天守閣は味気ない。昔の名城でも近年再興された城はみな鉄筋コンクリートだ。大阪城、名古屋城、小田原城など。岐阜城天守閣最上階の展望台から岐阜市と長良川を見下ろす景色は格別だった。
麓の岐阜市歴史博物館は古地図ばかりだった。古地図は好きだが何十枚も見せられては興味が薄れる。売店で天下布武のTシャツを購入した。
翌早朝、丸い川石の長良川河畔を散歩し、川沿いの古い商人の街並みが保存された川原町を歩いた。木の縦格子が特徴の家々は、多分江戸時代の様式だと思うが、楽市楽座で栄えた街が想像できた。行き交う町人の代わりに、ポニーテールを左右に揺らせる孤高のランナーが過ぎた。 以上