山鉾の巡行で有名な京都の祇園祭を、生憎の雨の中で初めて見た。山鉾と一口に言うが、山と鉾(ほこ)は異なることも初めて知った。大型なのは鉾で2mほどの車輪4つで動く。屋根まで10m弱、屋根の上に高い飾りを付けて全高20〜30m、地上数mの床に20人ほどが乗り、笛と太鼓でコンチキチンと呼ぶ数種の旋律を奏でる。数トンから十トンのものを30〜50人が綱で曳く。一番立派なのは四条烏丸から出て籤を引かずに毎年先頭を巡行する長刀鉾(なぎなたぼこ)で、先端に長刀が掲げられる。稚児が乗る今では唯一の鉾だ。稚児は左右に従える補佐役の禿(かむろ)2名と共に白塗りの男児で、今年も小学校5年生だった。禿も含めた衣装と諸々の行事に親は約3千万円負担するので、稚児は金持の息子に限られるとか。
山は高さ数mの床の上に人形を飾り松を立てて山を表わす。人は乗らない。神輿のように担ぐために担ぎ棒が付いているが、近年ではロングスカートの中の四隅の足に40cmほどのゴム車輪が付いている。山に搭載する人形は、社寺のご神体だったり謡曲の人物だったりする。五条大橋の牛若丸弁慶もある。但し鉾の形でもテッペンに松を飾って山を称するものも3基あり、また直径数mの布製のタライを伏せたような傘鉾も2基ある。
元来は四条東端の八坂神社の祭礼で、神輿3基が四条寺町(河原町通の少し西)のお旅所に移る17日の神幸祭の前に、市内を清めるために23基の山鉾が巡行し、神輿が戻る還幸祭の前に9基の山鉾が出たが、今では32基全てが17日に巡行する。巡行前夜16日には、竿灯のような提灯で洛中各所の道路上に組み立てた山鉾を照らす宵山が行われ、夜店が並び、屏風祭が行われる。屏風祭とは、金屏風を典型とする家宝の美術品を個人または会社が道行く人を対象に誇らしく展示することをいう。
数百m四方の中心街に勢揃いした山鉾32基全部を見てやろうと志を立てた私共が歩き始めてすぐ驟雨となり以降止むことはなかった。民家の軒先で豪雨を避けつつ小降りに傘をさして回る。浴衣姿の女性が多く、また千円〜千五百円の色とりどりの浴衣を並べた店も沢山あった。道路にテントを張った夜店だけではなく、人出を目当てに在庫一掃大売出しをする店もある。ガラス戸越しに、あるいは家の土間から鑑賞できる屏風祭の家宝各種を見て回る。暗くなると山鉾の紋を浮かび上がらせた提灯が美しい。紹介された「松坂屋」を訪れた。名を聞いてデパートだと思ったが京都に松坂屋デパートはない。しかし伊勢・名古屋に生まれた松坂屋が京都の根拠地とした木造2階建てで、1階には一般観光客が覗き込める衣装が展示され、紹介を得た人だけを2階に招き桃山時代にまで遡る時代ものの衣装の展示を見せていた。和装に興味のあるワイフには目の保養だった。
願い空しく翌17日も朝から本格的な雨だった。紹介されたM氏に四条烏丸で落ち合った。M氏は、子供の頃は長刀鉾の禿を務め、長じてはコンチキチンの笛を吹き、最近引退してからはテレビで祇園祭の解説をしたり、大学で祭と日本文化の講師をしておられる。M氏の引率で京都人を含む8人が雨の中を長刀鉾の巡行開始を見に行った。籤の順番でそれに続く山鉾や、まだ出発準備中の山鉾を見て回り、四条通の喫茶店でM氏の解説を聞きながら雨を避け、巡行の末尾を見送った。それから巡行の終点に近い御池新町で先頭の長刀鉾の到着を見て、新町通に戻ってくる山鉾を見物し、今度は東側の三条河原町に出て巡行の後半を見送った。
喫茶店などで時間を潰し、M氏の知り合いの祇園の店で休み、八坂神社前までM氏に従ったのは私共を含む3人だけだった。人ごみのアーケードの下で待つと、祇園だから芸妓さんが何人か通りかかった。6時に神輿3基が神社前で練った後、1基は東大路を北上し、2基は騎馬侍や馬上の稚児に先導されて四条通の目の前を通って行った。M氏と別れ、混雑の四条を避けて裏道を西行したら、さっき見た神輿がその小道を北上して行った。
折角入手した御池通の桟敷券は放棄した。道路上のパイプ椅子での見学は雨の日には惨めだからだ。山鉾巡行には疫病を祭で追い払う意味があり、疫病が起き易い雨の季節に行われるとも聞いたので、雨は仕方ない。ともあれ山鉾の飾りや屏風祭に見られる京都の伝統の富はすごい。 以上