新宿での仕事の合間に新宿御苑を訪れたら、百周年記念のポスタがあった。御苑を一周して、良い所だと改めて思った。池にも趣があり色々な種類の威厳ある巨樹が林立して木陰を作っている。広々とした芝生では幼稚園児がはしゃいでいる。LondonのHyde ParkやSan FranciscoのGolden Gate Parkに匹敵する東京が誇れる公園だなあと思って、はたと入場料200円に気付いた。ParisでもBerlinでも外国ではこういう公園はみなタダだ。新宿御苑も一時期無料になったのだが、園内が荒れて困ったため再び有料化した。明治大正時代に近くに住んでいた祖母や父は、華族の人々が着飾って馬車や人力車で入っていく新宿御苑を、まぶしく見ていたそうだ。新宿御苑は時々訪れるが、あまりその歴史も、なぜ「御苑」なのかも実は知らないなあとWebを漁ったら、御苑のサイトに歴史があった。
www.shinjukugyoen.go.jp/100nen/index.htm
新宿御苑の住所は、新宿区内藤町だ。祖母は新宿のことを「内藤新宿」と言っていた。「内藤新宿まで馬糞が続く甲州街道」とも言っていた。多摩の農民が馬車で野菜を運んでいたのだという。秀吉によって家康は父祖の地駿河国を追われ広大な田舎だった関八州を1590年に所領とした。家康の譜代の家来内藤清成も関東に散在する領地を貰ったが、1591年に家康は、甲州街道・青梅街道・鎌倉街道が交差する交通の要所新宿の70万uを、江戸の西の守りとして信頼できる内藤清成に与えた。清成は徳川秀忠の守役も務めた関東総奉行の一人で、1601年には2万1千石の大名となった。後に内藤家は神田小川町にも屋敷を貰ったので、新宿は下屋敷となり、地域住民も時として引き入れて楽しむ田園地帯だったそうだ。それが新宿御苑の前身である。玉川上水を引く今の池の辺りが庭園化され、玉川園として江戸の名園に数えられていた。
大阪と京都の中間にあった摂津富田城を与えられていた内藤家当主内藤清枚(きよかず)は1691年に信州高遠藩主を命じられた。高遠藩主としては徳川秀忠の隠し子を保科家が預かって養子にした保科正之が有名だが、隠し子であることが世にバレて栄転し、変遷の後内藤家が高遠藩主となり明治まで続いた。この縁で伊那市高遠町と新宿は友好提携をしている。 その頃甲州街道は、日本橋から出発して最初の宿場高井戸まで5里近くもありやや遠いため、中間に宿場を新設することとなり、1698年に内藤家邸宅の一部を割いて新しい宿「内藤新宿」を作った。
明治維新の後1872年に内藤家邸宅は国が買い上げ、内務省管轄の「内藤新宿試験場」となった。いわば農事試験場だ。洋種果樹を輸入して普及を図り、苗から栽培しジャムなど加工品の製造までやった。青森のリンゴや小豆島のオリーブはこの時の新宿発である。1879年には宮内省管轄の皇室苑地「新宿植物御苑」となって温室が多数作られ、葡萄、メロン、パイナップル、カトレアなどの栽培が行われた。日本で初めてシクラメンが栽培された。1906年には公式に皇室庭園となり、1918年から観桜会、1929年からは観菊会にも内外の著名人・賓客を招いて庭園外交・社交が行われた。芝生には9ホールのゴルフコースも作られたという。
1889年に福羽逸人卿が新宿植物御苑の責任者となり、1900年のParis万国博に菊3鉢を出展したのに伴って渡仏した際、Versalle園芸学校教授のHenri Martine 1867-1936に庭園設計を依頼し、1902年から4年掛って明治39年西暦1906年に西洋風の近代庭園が完成し、明治天皇のご臨席を得て日露戦争戦勝祝賀を兼ねて開園式が行われた。以来百年経過した。
1945年には空襲をうけて全焼したが、職員は園内の木を薪にして残った温室で貴重な植物を守った。1949年には厚生省所轄の「国民公園新宿御苑」となり初めて日頃は一般公開された。途絶えていた観桜会・観菊会も総理大臣主催の「菊を見る会」(1951年)、「桜を見る会」(1952年)として復活した。国立公園などと一緒に1971年発足の環境庁、のちに環境省の所管となり、今日に至っている。今では年間100万人が折々の花と景観を楽しんでいる。2006年度ということで今月まで百周年行事があったようだ。新宿御苑は何時訪れても退屈することがない。 以上