原田泰治美術館を久し振りに訪れた。1998年に開館したモダンな建物が諏訪湖畔の一等地にある。喫茶室は総ガラス張りで湖全貌を展望できる。館長は原田泰治だが、親友「さだまさし」が名誉館長だ。原田泰治の絵を思い出せない方はWebで引けば無数に出てくる。「素朴画」と呼ばれる。幼児の絵のように遠近透視画法を無視し建物は傾いている。加えて顔は目鼻のないノッペラボウだ。顔は各自想像して欲しいとのこと。しかし伝統的な日本の心象を描いて人気がある。私共もファンになり、サイン会に何度か出かけて絵や本にサインを貰い、額を掲げている。山と森と湖を描いた1992年の長野県博覧会の大判ポスタにも筆太のサインがある。
諏訪の看板屋の息子として1940年に生まれたが小児麻痺で歩行能力を失う。補助具で歩けるようになったが今も不自由だ。子供の頃仲間と遊べぬため独りで花鳥を眺めることが多く、その画像・映像が脳裏に刻み込まれたと本人は言う。終戦後看板需要が無くなり、一家は飯田の山奥で開拓農家として貧しく苦しい生活を送った。長じて東京のデザイン会社に就職したが通勤が困難なため諏訪に戻り、素朴画を始め徐々に認められた。
今回は「日本全国47都道府県127作品展」が行われていた。1982年から2年半、朝日新聞の日曜版のトップを飾った作品である。地元長野が21作品、広い北海道が8作品、秋田県が4作品ある他は、各都府県を1〜3作品で網羅している。例えば東京では佃島の路地と表参道のケヤキ並木の2作品が含まれている。惜しむらくは、北海道から沖縄まで地域別に展示すれば判り易いのに、見学者にはあまり意味の無い掲載順の展示だった。
朝日新聞のおかげでその後国際的に活躍するようになった。1989年末から2年間掛けて米国主要都市5箇所で展示会"The World of Taiji Harada, Depicting the Four Seasons of Japan"を開催しつつ米国各地を百号に描いた。それらを持って1991年には「帰朝記念展 原田泰治アメリカを行く」が日本各地で開催され、私共も見に行った。
亀田製菓が、創立40周年記念に無駄な金をかけるよりも世の中の文化に貢献したいと、服部克久、永六輔、黒柳徹子、Toshi、さだまさしの5人が選んだ「日本の童謡・唱歌100選」の一つ一つに原田泰治が新たに絵を描く(一部は以前に描いたものを充当)企画を進め、2000年、2001年に全国各地で展覧会が行われた。亀田製菓もなかなか味なことをやる。
朝日新聞の127週にわたる掲載だが、画題の選択に特徴がある。京都・奈良を描くとしたら普通は清水寺、金閣寺、舞妓、春日神社、鹿などではないか。だが原田泰治はそれらには目もくれない。京都では大原の田畑にレンゲが咲く農家の母子、叡山電鉄鞍馬線の2両編成の電車が行く川沿いにネムの花が咲く田舎の母子、日本海の舟屋を背景に漁船に乗る父子、の3景を描き、奈良では大和郡山の街角の風呂屋と酒屋の前を行く人々と、吉野の田舎で手漉きの紙を干す家族を描いている。必ず(目鼻のない)人々の生活を描く。田舎を描く。日本的なものを描く。東京の表参道ですら、けやき並木沿いの(今は無くなった)同潤会アパートの前を行く若いカプルやボランティアで掃除するおばさん達を描いている。
New YorkのCentral Parkを描いた百号の絵が原田泰治の画風の典型だと思っている。59丁目の高層ホテルの北窓から公園を見下ろしている。驚いたことに中景の木々の葉を一つ一つ丁寧に描いている。木を一体の対象物として描く通常の画法を拒否しているのだ。右側つまり東側の高層ビルは約30度右に傾いており、西側のビルは左に傾く。つまり通常の遠近法を拒否している。右下隅には観光客用の馬車の列と人々がYamagataの絵のようにカラフルに描かれており、また池の傍に憩う人々の姿がある。
当初私は原田泰治の絵が好きになれなかった。Picassoの絵(初期の写実的な絵を除く)を評価できないのと同様に、私の写実指向と矛盾するからだ。しかし何度も見るうちに慣れてしまった。慣れるとこれは絵というより抒情詩なのだと思えるようになった。「日本の童謡・唱歌100選」の企画は真に当を得ていた訳だ。抒情詩として見れば日本的な心象を描く原田泰治の絵は私の共感を呼ぶ。こうして私共はファンになった。 以上