映画と小説は時間の無駄とする私が原節子のDVDを4本も買った。
@Die Tochter des Samurai(侍の娘)日本名 新しき土 1937 JOスタジオ(後に東宝)で日独合作、Dr. Arnold Franck監督:原節子 早川雪洲
Aわが青春に悔いなし 1946 東宝 黒澤明:原節子 藤田進 大河内伝次郎 杉村春子 志村喬
B麦秋 1951 松竹 小津安二郎:原節子 笠智衆 淡島千景 三宅邦子 菅井一郎 東山千栄子 杉村春子 二本柳寛 佐野周二
C小早川家の秋 1961 松竹 小津安二郎:原節子 司葉子 白川由美 団令子 新珠三千代 小林桂樹 加藤大介 宝田明 森繁久弥
昨年は小津安二郎監督生誕百年で、松竹が小津映画を売り出した。筋が有るのだか無いのだか分からないような日常的な場面を淡々と連ねて人情を描いた小津映画の一部をテレビで見かけて、私の青少年時代の日本社会の記録映画かも知れないと思いBCをAmazonから購入した。制作費に恵まれなかった小津監督に原節子が、出演料は下がってもいいと1949年から連続出演した小津映画の2作である。確かに彼女は黒澤映画より小津映画を好んだかも知れない。私には常に年上の女優だった原節子が年下で出現したことに驚き「ム?もっと若い原節子は?」と興味を持ち@Aを追加発注したが、彼女はあまり変わっていなかった。C以外はモノクロだ。
独Hitler政権が映画による日独連携を探り、私の生年1936年に来日したFranck監督は、日活にデビュー10ヶ月の15歳の無名の原節子に一目惚れした。彼女は保土ヶ谷の2男5女の末娘で、女優の姉と監督の義兄に勧められ「家計を助けるために」元町女学校を中退して映画界に入った。親のような兄姉に可愛がられ、ホワッと育ってホワッと女優になった。
@は原節子の出世作だが荒唐無稽な映画だ。原節子は厳島神社の鳥居を真下に見る丘で鹿と戯れるうちに自宅から呼ばれ、奈良公園を駆け抜けて、焼岳を遠望する旧家に駆け戻った。1915年の噴火の泥流で大正池(今より立木が多い)を作った焼岳は、まだ活発に噴煙を上げ常時地震を起こしている。歩ける範囲に東尋坊の荒波や桜のトンネルがある。阪神電車のネオンに東京音頭が流れる。つまり土地勘の無い独国民向けに、日本全国から異国情緒を摘み食いした訳だ。独から帰国した西洋かぶれの許婚が原節子との婚約解消を申し出て、彼女は焼岳に身を投げようとする。しかし許婚は徐々に日本の血に目覚め、富士山麓で父親と共に耕す土を喜び、すんでの所で彼女を救出して新天地満州に新家庭を拓く。
Naziが標榜した「血と土」を侍の国日本で謳い上げた映画は独で大ヒットし、空前のロングランになった。父親役の早川雪洲は勿論、原節子も時々独語をしゃべる!!さすが独Goebbels宣伝相は監督に「次にはもっとマトモな筋を考え給え、異国情緒だけでは続かないよ」と言ったそうだが、その異国情緒を持たない私には醜悪にしか見えなかった。但し16歳の原節子は美しい。大根役者の評判が高かったそうだが、美人は大根でも許される。原節子は招かれて渡独し絶賛を浴びて欧州から米経由で帰国した。
それに比してさすが黒澤明のAの原節子は凄みがあった。戦争映画で軍服が似合った男優の藤田進が、不戦論者のスパイとして登場するのは許せない。京大滝川事件とゾルゲ事件を下敷きにしている。京大から追われる教授大河内伝次郎の一人娘原節子は、日本が戦争に突進する頃、刺激ある人生を求めて藤田進と同棲するが、夫は志村喬の特高に捕まり獄死する。村八分になった夫の両親を原節子は訪ね、迫害されつつ義母の杉村春子と一緒に慣れない農作業に精を出す。敗戦後父も夫も名誉を回復する。
女学生時代「5センチ眼」とあだなされたという原節子の大きな目鼻立ちは日本人離れしている。Franck監督の目に留まったのも道理だ。原節子の先祖が下田出身と聞いた某監督は、何代か前に混じった外人の血が先祖返りで発現したに違いないという説を唱えた。
小津監督は1963年に逝き、Cが小津映画の最後の作品となった。原節子は1962年の「忠臣蔵」に「りく」の役で出たのを最後に、引退声明も無く鎌倉に引きこもって今日に至る。それも美学かも知れない。 以上