朝鮮戦争の米兵と結婚した山口淑子が文化の違いで苦労する「東は東」という映画が1951年にあった。米人はおしなべて、全世界が米国のルールで動いていると確信しているものだが、例外的な米心理学者が、いやどうも国によってものの考え方が違うらしい、と遅蒔きながら気付いて研究し始めた。そうなると徹底的に調査研究するのが米人だ。初め私は「何を今更」と小馬鹿にしていたのだが、その著書に盛り込まれた無数の心理学実験に感心し、今まで国際ビジネスマン(のつもり)の経験則として捉えていた国ごとの差異が欧米流の論理で体系的に整理されたことに驚き、目からウロコが落ちた。私は英文で読んだが和訳も出ている。
「Richard Nisbett, The Geography of Thought, Free Press, pp288」
「木を見る西洋人 森を見る東洋人、ダイヤモンド社 2004/6 pp296」
この和訳の表題は秀逸だ。筆者によれば、欧米人、特に北欧人・アングロサクソンと、東洋人(日・中・韓・時々印も)とは、多数の心理学実験で明確な差を示す。これはDNAの仕業ではなく、幼時以来の家庭や社会での教育訓練の結果だとしている。そうだろう、米国からの帰国子女は米人的だと感じることが多い。筆者の主張を整理すると次のようになる。
1.東洋は古代以来農業社会だった。協調しないと生活出来ないし(田植えや稲刈りは昔は助け合いが必須)気まずくなっても移住できないから、個性派は排除され、自分以上に周りを気にする社会になった。
一方古代希臘以来西洋は交易・狩猟・牧畜の社会で、独立心旺盛な自由人が自己主張をし、出自や背景の異なる人々が徘徊し、気まずくなったら移住できる環境だった。このため互いに個性を尊重する社会となった。
2.東洋では「塞翁が馬」の逸話にあるように、環境条件は日々流転し、不幸が幸運になったりする。そのなかでは環境や背景が大事で、個々の事象や分類や一般法則を云々しても無意味と考える。
欧米では個性尊重の延長線上で、個々の人・物の属性への関心が高い。従って分類や一般法則が重要である。属性を論じるためには環境の影響を排除し、個をできるだけ純粋にモデル化・抽象化することが大事だ。西洋の分類、属性、モデル化が近代科学の発達の基礎になっている。
3.上記和訳本の表題に集約されている上記のような差異が、多数の心理学実験で端的に明らかになっている。
4.香港・シンガポールの中国人は東洋の中ではやや西洋的で、独・仏・伊は北欧・アングロサクソンよりやや東洋に寄る。また米人の中では黒人・Hispanicに比べてWASPが突出して西洋的で、米人女性は米人男性よりもやや集団指向であり東洋的だ。差異は人種や言語によらず文化によって生じることが、実験的に判っている。つまりまとめれば
東洋=集団指向=関係・背景・環境指向=複雑を許容=全体の中の自分
西洋=個々指向=分類・属性・法則指向=簡単にモデル化=自分の人生
紹介されている数多くの実験から2例を挙げよう。似て非なる2つの絵を見せて間違い探しをさせると、米人は前景の物体の違いをよく指摘し、日本人は位置関係や背景の差に強かったという。学生に或る殺人事件を説明して原因を討議させたところ、米人は犯人の性格に関心が高く、中国人は背景と人間関係を多く論じたそうだ。
私は日本人の中では西洋的なのかも知れぬ。1993年に東芝青梅工場に招かれ「これからは中小企業の時代」「自分の特技を磨き人生を切り開く時代」と講演した。木口氏の手が上がり「それはデキる人の論理。特技の無い凡人は周囲との助け合いが命」と言われたので「その時代は終わった。協力を取り付ける特技でもよい。特技がないと居場所も無くなる」と答えた。大企業にリストラが吹き荒れる7-8年前だった。Jack Welchの有名な人生訓に"Control your life. Or someone will."というのがある。
日本人は事業交渉の際「その条件では我社はこんなに困る」と論陣を張ることが多いが、米社に対しては「その条件では我社も困るが貴社も損する。この条件なら両社に得」という交渉が必要だ。これは私の経験則だったが、本書によって思い遣りの多寡という裏付けを得た。 以上