同窓会誌の新年号に「思想としての法華経 植木雅俊」という論文が掲載されていた。法華経は妙法蓮華経とも呼ばれ、日蓮宗やそこから派生した創価学会で「南無妙法蓮華経」(南無=帰依する)と激しく唱えることは知っていたが、あやふやな知識だったので頭の整理を志し、同じ筆者の著書を2冊読んだ。難解だった上記論文は同題の著書の要約だった。
思想としての法華経 植木雅俊 岩波書店 2012/9
仏教、本当の教え 植木雅俊 中公新書 2011/10
筆者は、1951年生、九大物理修士(但し俺のブツリは仏理だと)、東洋大文学博士課程中退、東方学院中村元教授から仏教とSanskrit語を学習、お茶大博士(男性博士第1号)という異色の経歴だ。法華経をSanskritから日本語の現代語に翻訳した。Sanskritが読める日本人は約百名だとか。
筆者によると、仏教には次のような歴史があるという。
1.釈尊(462BC-383BCと特定している)の原始仏教
2.釈尊滅後百年頃から教団が強くなり、後に大乗仏教から「小乗仏教」と貶称される教義が前3世紀末に確立。東南アジアに布教して南伝仏教。
3.紀元前後に原始仏教回帰の宗教改革としての大乗仏教が勃興。
4.小乗・大乗を止揚する法華経が1-3世紀に段階的に成立。広義の大乗仏教の一部として扱われる。
5.1世紀以降大乗仏教が徐々に中国に伝わる。北伝仏教。4-5世紀の鳩摩羅什(法華経を「妙法蓮華経」と漢訳)、7世紀の玄奘(=西遊記の三蔵法師)などが経典を漢訳。それが538年(552年の説も)に日本に伝来。
6.7世紀以降、仏教に呪術やHindu教が入り込み神秘的な密教が印度で成立し中国に伝わる。日本には最澄の天台宗、空海の真言宗として伝来。
7.日蓮上人が1253年日蓮宗=法華宗を創立。法華経を「末法の世に向けて説かれた経典」と信奉。日蓮は鎌倉時代が末法の世だと信じていた。
原始仏教はCaste制度を否定し、出家・在家を問わず、男女の差別なく万人平等を説いた。印度古来の社会制度でありバラモン教=古代Hindu教の基盤であるCaste制度を否定したことが、仏教が印度で一部にしか普及しなかった理由とされている。釈尊自ら弟子と共に托鉢したし、弟子達も釈尊に気軽に「ゴータマよ」と呼び掛ける原典があると。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は神との契約の下に戒律があるが、原始仏教では「自分がして欲しくないことを他人にしない」という倫理であった。占いやまじない、行き過ぎた祭礼、などを否定し、バラモン教の生贄の火祭Homaに反対して不殺生を説いた。(後に火祭Homaは「護摩」となって密教に入った。) 主教義としては、普遍真理の法Dharmaを自分に体現し、真の自己に目覚めることを目指した。「法に則る自己」の実現である。これを法帰依・自帰依という。自帰依によって他人の自帰依に目覚め他人への慈しみが生まれる。感情や煩悩に流され易い自己を馬に例えれば、「法に則る真の自己」は御者であると説く。このように原始仏教は自制を強調した。
釈尊滅後百年で、教団は王侯が寄進した荘園や金銭で富裕化・大地主化し保守化・権威主義化した。釈尊を神格化し、修業と成仏の困難性を強調して釈尊と後の世に訪れる弥勒菩薩以外は仏陀になれないとし、隠遁的に瞑想に耽る修業をする出家が在家に優先し、男が女に優先する教義を構築した。在家と女性は仏弟子から排除された。他人の救済より自己の修業の完成を目指す傾向を、小乗仏教だと後の大乗仏教は貶称した。
大乗仏教は「原始仏教に回帰せよ」という宗教改革で、菩提心=無上の菩提を求める心 を持つ者は、在家も女性も含めて全員菩薩であり、(小乗仏教に凝り固まった人以外は)全ての人が成仏できると説いた。
法華経は印度人・ギリシャ人・中央アジア人などが融合して暮らす北西印度の融合・寛容文化を背景に、小乗仏教と従来の大乗仏教を止揚し、例外なく全ての人が成仏できるとした。座学・瞑想より実学・行動が大事とされた。その特徴は(1)平等、(2)止揚、(3)全ての人に信頼と慈愛、(4)出家と在家、男と女の差別の解消、(5)女性の地位回復、(6)教義の迫害に対しても寛容、だと言われる。これらに日蓮上人は心酔したそうだ。 以上