明智光秀の子孫が書いた本能寺の変の真相探求の本を読んだ。
明智憲三郎 本能寺の変 四二七年目の真実 プレジデント社 09年
1582年の本能寺の変から427年経った2009年に出版された本で、筆者(1947-)は秀吉の追及を逃れた光秀の側室の子の子孫で、慶大修士のIT技術者として三菱電機のIS部門から関連会社の常務をしている。
本能寺の変は、信長から酷い仕打ちを受けた怨恨と、領地を召し上げられる代わりに攻撃先の敵地が与えられた危機感と、天下を狙う野心から信長を襲ったという定説になっている。しかし古来様々な異説がある。その一つと思って本を手にしたが、さすがIT技術者出身の経営者らしくあらゆる文献を読み込み相互検証し、推論を排し事実と思われる事柄を抽出し科学的論理的にストーリを構築しており、私には大変説得力があった。
筆者は冒頭の序に七つの謎を挙げている。私の言葉で言い直せば、(1)謀反の動機が怨恨や野心では弱くリスクに見合わない。(2)用心深い信長が無警戒だった不思議。(3)高リスク要因が多かったはずの企みが成功した原因。(4)もっと用心深くリスクが高い家康が変の直前に無警戒に安土を訪れその後上洛寸前だった理由。(5)光秀の事後策が見えない。(6)織田領になったばかりの甲州信州に、変の直後に家康が侵攻したが誰からも咎められなかった理由。(7)変の後秀吉が中国から素早く戻れた不思議。
筆者が文献を読み解いた結果では、この七つの謎が明解に解けるという。それは次のようなストーリであった。(1)明智光秀は名門土岐氏の流れで、土岐氏再興の期待が掛けられ強い自覚を持っていた。(2)信長が全国統一を目前に策定中だった新体制は、京都周辺の領地に配置した家臣を遠方に移封し中央には親族を配置する構想だった。(3)武田氏が滅亡した以上、徳川家の利用価値が減少した一方で、強大化した徳川家が織田家の脅威になりつつあった。(4)徳川家を滅ぼし上記(2)の一環として明智家を近江から駿河に移封することを信長は考えた。光秀はそれを知り敵地に移封される困難を恐れた。(5)四国を統一する勢の土佐の長宗我部氏が信長と対立したのを光秀が調停した。その後信長は心変わりして変直後の時期に四国攻めが開始されるはずだった。土岐氏と近い長宗我部氏の救済を光秀は願い出たが信長に一蹴された。(6)信長は徳川家撲滅のために、家康と主要家臣を本能寺での茶会に招き、光秀が乱入して皆殺しにする計画を立て、光秀に指示した。家康を安心させるために信長は少人数で本能寺に入り、光秀の軍勢は中国で苦戦中の秀吉を助ける出兵のためとした。
(7)光秀は信長を裏切ってこの陰謀を家康に伝え、家康を招待する茶会より前に信長を討つからと支援要請し合意を得た。(8)光秀の謀議に加わった細川氏は、昔細川家に仕える小者だった光秀(秀吉はこの関係をも隠蔽)が天下を取ることを快く思わず、裏切って中国出兵中の秀吉に伝えたため、秀吉は毛利氏との和議と上京準備を予め段取りした。(9)光秀は信長のお膳立て通りに兵を動かし、ただ計画よりも早く本能寺を襲った。(10)家康は打ち合わせ通り甲州信州の織田軍を叩き、その後上京して光秀軍と合流するはずが、秀吉の素早い動きで光秀が戦死してしまった。戦死を知った後もしばらくは進軍したが機を読んで撤収した。(11)細川氏は光秀の催促にも拘わらず兵を挙げなかった。(12)家康と対峙したくなかった秀吉は信長の陰謀も光秀の陰謀も全て隠蔽し、光秀の個人的怨恨・野心説に矮小化した正史を記述させ、世に流布し異説を弾圧した。(13)秀吉は細川家に異例の厚遇を与え、家康は光秀の親族を取り立てた。光秀の重臣で陰謀を先導した斉藤利三の娘を孫竹千代の乳母春日局にしたのもその一環であり、また土岐氏に連なる者を改姓させ土岐家を再興させた。
変の数日前に開催された連歌の催しで発句を務めた光秀は、くだんの句「時は今あめが下しる五月かな=今こそ好機、土岐氏が天下を統べる(したしる)時だ」を詠んだとされている。しかし筆者は文献から見て本当は1字違いで「下なる=土岐氏は今五月雨の下の苦境にある。脱したい」だったのを、光秀の怨恨・野心説のために秀吉が改竄したとしている。
下手なサスペンスドラマより数等論理的で数倍面白かった。 以上