「奥の細道」を久し振りに勉強した。趣味・食・旅などを取り上げる大人の雑誌「サライ」の5月1日号は奥の細道の特集号で、NHKの殿様キャスタ松平定知氏の朗読になる奥の細道全文のCDが付く、と新聞広告で見かけ、CDに惹かれて初めてサライを購入した。奥の細道の街道沿いの写真が豊富な取材記事、鉄道ローカル線で回る紀行記事などが興味深かった。因みに次のURLにも奥の細道全文と解説が写真付きで出ている。
http://www.bashouan.com/Database/Kikou/Okunohosomichi_f.htm
しかし一番の興味は64分のCDだ。早速聞いてみた。ところが全然理解できない!!「月日は百代の過客」とか、高校の古文で暗唱させられた部分は覚えていて懐かしささえ感じる。だからこそ興味を持って買ったのだが、全体的にはチンプンカンプンで、買ってきたことを後悔すらした。以前岩波文庫の源氏物語宇治十帖を、注釈と首っ引きで何とか読み解いたので、僅か3百余年前の奥の細道なら聞いて判るだろうと甘く考えていた。
雑誌付録の、原文と現代語の対訳を参照する。耳で聞いて判らなくても目で見れば、それも二三度見直せば、判る部分も多い。原文はそんなに長くない。全編で「うつせみ」6-7編分に過ぎない。白河の関は2百文字弱、松島でも5百文字程度だ。そもそも芭蕉の旅は江戸深川から平泉まで北上し、酒田に出て日本海側を南下して敦賀から大垣に至る行程で、1689年の3月から9月に行われた。奥の細道は芭蕉の没年1694年にかけて5年も掛けて完成し、一般に普及したのは1702年の初版本が出てからだ。5年間ずっと推敲していたかどうかは知らないが、「うつせみ」も乱発せず1年掛けて1-2編を推敲すればもっと良い文章になるのかも知れない。
単語が判らないケースもある。「方寸を責む」とは「心をとぎすます」と現代語化してあった。方寸=胸中という単語は広辞苑にもあり、奥の細道のまさにその箇所が用例として引用されていたが、浅学にして私は知らなかった。仮名遣いは相当いいかげんだ。「於いて」は「おいて」だが「をゐて」とも書いてあった。「教える」意味で「をしへけり」と正しく書いてある箇所もあるが「をしゆ・をしゆる」という部分もある。ハ行下二段活用のはずが、終止形連体形はヤ行になっている。「香る」は「かをる」が正解だが「かほる」と書いた箇所がある。日光での有名な句「あらたうと青葉若葉の日の光」の「尊し」は「たふとし」でなければなるまい。芭蕉は古文文法の単位を取らなかったか。それにしても、この頃は既に発音は「を→お」「ゐ→い」「ハ行→ア行」であったことが判る。
古文に共通することだが、古典の理解・記憶が当然の前提となっている箇所が多い。白河の関で「秋かぜを耳に残し、もみじを俤にして、青葉の梢猶あはれ也」と書いてあるのは、能因法師の和歌「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と、源頼政の「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関」を踏まえて、「そういう歌も思い出されるが今は青葉でそれもなお結構だ」という表現だそうだ。よほど教養のある人を対象に奥の細道は書かれたのか、3百余年前には教養の対象が限られていて本を読むような教養人は当然その程度は知っていたのか。
日本語の非論理性という特徴が原文を難しくしていることにも気付いた。例えば主語が明示されていないことをいいことに、一つの文章の中で主語くらい無断で切り替えても常識があれば判るはずという前提がある。3百年前にはそれで良かったのだろうが、現代日本では落第だ。西欧語に比べて現代日本語は非論理的だと感じることが多いが、3百年前にはもっと酷かったことが判る。散文が判り難いくらいだから、曾良の句も含めて62句の俳句はもっと判り難い。西行法師の句と謡曲で有名な那須の遊行柳を訪れての句「田一枚植て立去る柳かな」は、柳に見とれているうちに田植えを済ませて農夫が立ち去ったという句だが、柳が立ち去りそうだ。
原文を読み味わい、解釈に自信のない部分、理解できない所を現代語対訳で理解した上で、改めてCDを聞いた。ウン判る判る!! 5年間も推敲を重ねただけあって散文でも韻文のように美しい響きがある。そうだこれこそが、我々が忘れがちな日本語固有の美点なのだ。以上