赤坂見附から西に伸びる青山通り国道246号の坂を少し上った北側に、赤い提灯を塀に並べた豊川稲荷がある。正式には東京赤坂豊川稲荷別院という。特に信仰心がある訳ではないが、文化財としての神社仏閣に興味がある私は、近くで時間調整などの機会がある度に時々訪れる。都心では少ない緑の世界がそこにはある。先日も仕事で近くに行った途中に立ち寄った。さすが商売の神様お稲荷さんだけあって、経営者と思しきネクタイ姿の参拝客が多いのも他の神社仏閣には見られない特徴だ。
別院というからには本殿があり、それが豊川稲荷だ。豊川という川に掛った橋の町が豊橋で、その上流に愛知県豊川市がある。ここに三州本山豊川稲荷本殿があるそうだが、参詣したことはない。本来は豊川閣妙厳寺という曹洞宗のお寺の一角に、仏法守護の神としてお稲荷さんが祀られたのだが、今はお寺よりお稲荷さんの方が有名だ。豊川市は元々妙厳寺の門前町だったそうだ。道元の弟子が宋から帰国中に、稲穂を荷い白狐に跨った霊神の陀枳尼真天(だきにしんてん)が船上に現れ、仏法を守護すると言われた。その話を聞き知っていたそのまた弟子の東海義易が、妙厳寺を創建した時に同一境内に陀枳尼真天を守護神として祀った。上記の「陀」の代わりに「托を口扁に替えた字」を使うのが一般的だが、JISには活字が無い。因みに稲荷寿司は、豊川稲荷の門前町の店「山彦」が狐が好むとされている油揚げに寿司飯を詰めて売り出したものだという。
豊川稲荷の別院は、赤坂の他に大阪、横須賀、福岡、札幌にもあるというが、どれにも私は訪れたことはない。
全国に8万社の神社がある中で3万社は稲荷神社で、稲を守る神が稲荷明神だ。稲の大敵鼠を駆除する狐を使女とする田の神への原始信仰が底辺にあったのだと言われる。昔はごく一般的な動物だった狐の鳴き方で稲の出来を占うことも行われ、また狐憑きのような超人的能力を持つものとされてきた。稲荷神社の祭礼である旧暦2月初午は、農業開始のお祭だったと言われる。このように原始信仰に端を発する農業神であったが、近世に商業神としての性格を持ち、町人の信仰を集めた。
日本三大稲荷というのが面白い。京都の伏見稲荷を外す例はなく、豊川稲荷が外れる例は無くはない。茨城県中部の笠間稲荷、岐阜県南端の千代穂稲荷、佐賀県南部の祐徳稲荷、宮城県南部の竹駒稲荷がそれぞれ三大稲荷を称しているが、笠間稲荷を入れる例が他よりは多い。つまり最も標準的な三大稲荷は、伏見稲荷、豊川稲荷、笠間稲荷であろう。これらが勧請つまり分霊して、伏見系稲荷とか豊川系稲荷とかが全国に分布している訳だ。京都駅南にある東寺の守護神とされる伏見稲荷は、しばしば全国の稲荷神社の頂点とされ、単に稲荷大社とも呼ばれる。東寺と関係あるとはいえ距離も離れている伏見稲荷を神道系と言うなら、創建以来寺と不可分の関係にある豊川稲荷は仏教系と言えよう。
江戸の名奉行として名を轟かせた大岡越前守の領地は豊川に近かったため、今は赤坂見附の南側の商店街になっている赤坂一ツ木にあった下屋敷に、豊川稲荷から分霊した稲荷を祀り信仰していた。この稲荷神社が時代が移って明治20年に青山通りを渡って現在の地に移った。だから境内には開基としての大岡越前守の廟がある。面白いことに本殿と奥の院が並んで南面しているが、奥の院の前の一等地だ。お稲荷さんはみなそうだが、家内安全、商売繁盛、交通安全、心願成就など、それぞれ願いを込めた赤と白の「千本のぼり」が奥の院の参道に林立している。
赤坂豊川稲荷の東端の子宝観世音菩薩像を挟んで、山口百恵・桜田淳子・森昌子の記念樹がある。昭和52年正月に「高3トリオ」が卒業記念として植樹している。同行した社員が「昭和52年では私は1歳ですね」と言った。昭和は遠くなりにけり。当時一世を風靡していた3人がなぜこの地に記念植樹をしたかだが、近くにコロンビアレコードがあることがその理由と推察した。桜田淳子の木蓮と森昌子の泰山木は直径10cmほどの幹になっているが、山口百恵の山茶花の幹は直径4cmほどだ。29年で山茶花はこの程度にしか成長しないのだろうか。3人の近況や如何に? 以上