あなたが道で百万円拾ったらどうしますか? 勿論交番に届けますよね。例え喉から手が出るほど金が欲しい時でも。日本の市街地だったら多分80%の人は届けるのではないだろうか。しかしもし絶対に他人に見つかる心配がない場合だったらどうだろうか。例えば無人の山道から用足しのために茂みに分け入った時に拾ったとしたら? それでも届ける人は、誰も見てなくても自分は(神様は)見ているとか、無くした人が困っているに違いないとか、慮ることが出来る本当の善人だ。しかし多分届けが出る確率はぐっと下がって20%程度になるのではないだろうか。誰かに見られている、誰も居なくても自分に(神様に)見られている、というその視線が人間を善人あるいは偽善者にする。
衆人監視の下で悪いことが出来る人は少ない。だから悪いことは大抵見えない所で起こる。見えないはずの所で起こり何かの拍子に世の中に見えてしまった時に我々が知る所となる。輸入肉を国産肉として国に買い上げさせたとか、(既報のように私は同情しているが)原子力発電所の機器劣化を隠したとか、オーム真理教がサリンを製造して撒いたとか、鈴木議員が特定企業に受注させて謝礼を貰ったとか、みんな見えないはずの所で起こり、ほとんどが内部告発によって公になっている。
だから米国を典型とする先進諸国は、情報公開とか言論の自由とかの情報共有化への努力は社会が正常に機能するための必須条件だとし、少々の弊害があってもこれを守ろうとする。インターネット上のポルノを取締まる法案が米議会に提案された時、PlayboyやPent Houseが堂々と論陣を張って廃案に追い込んだその論理には驚いた。「(1)ポルノはインターネットに乗せようと乗せまいと、世の中に満ち満ちている。(2)インターネットはそもそも見る方で取捨選択する自由な表現の場だ。親が子に特定サイトを見せない手段は完備している」というのは分かるとしても「(3)公的権力に少しでも検閲を許すと裁量の拡大で際限なく広がる可能性がある」に至っては呆れた。だがこの論理は米国民に受けた。
逆に情報の共有化を制限した国では驚くような理屈がまかり通る。北朝鮮の拉致事件への対応や、イラクの国内世論操作にその例をみる。また情報の共有化を抑制したまま資本主義を導入したロシア、中国では汚職が蔓延している。国民が知らない情報を持つ幹部が自由経済を活用すれば儲かるという仕組みは危険だ。資本主義を経済の民主化とすれば、情報の共有化は情報の民主化だ。二つが対でないとうまくいかない。
日本でも役所の情報公開が徐々に進んでいる。また内部告発者が二十数年間ホサれた悲劇が報道され、内部告発者保護の法案が議論されているのも同じ路線であろう。ただ社内での最大限の努力が実らず内部告発に至った時は会社に決別する時ではないのか。以降二十数年間も同じ会社に居座ってホサれたと嘆くのは当たらない。日の丸掲揚に反対しながら、安全や高給など日本国民の特典はフルに享受しているのに似て見苦しい。
東電の情報隠しへの攻撃や住民基本台帳に見られる如く、官僚は民衆の情報は吸い上げたがるくせに、官庁の情報公開には本音の所では苦々しく思っており、何とか隠したいし隠せるという自信過剰を持っている。「知らしむべからず、依らしむべし」という何世紀ものノウハウが生きている。小泉首相が北朝鮮に行った時には昼食も断って弁当で済ませたのに、参事官一行は松茸を貰って帰ってきたそうだ。隠せる自信をもってつい食い意地で貰ってきたのがバレてしまった。狂牛病対策として全頭検査で世界一厳しいチェックをしているというが、検査しているのは牛肉にする牛だけで、病死牛や安楽死させた老いた乳牛など狂牛病の確率が高い怪しい牛は、牛肉にしない代わりに検査もしないことを貫いている。感染源を確認しても、消費者の安心と牛乳の安全性以外には、農水省も酪農家も誰も得をしないからという「大人の判断」なのであろう。道路公団が次々に新路線を建設できたのも路線ごとの採算を公表しなかったからだ。
しかし情報の民主化を遅らせることはできても止めることはできない。生活が向上し情報通信が発達すれば必然的に情報の民主化は進む。 以上