出雲文化に触れるバス旅行に夫婦で参加した。学生時代に東京から山口県に帰省する際京都から山陰本線に入り、途中下車と駅待合室泊まりを重ねて以来半世紀ぶりの山陰だ。人間には忘却があるとはつゆ知らぬ年代だったので、一切紀行記を残しておらず、今多くは忘却の彼方だ。
私は古代史を自らひもとく意欲も力もなく、ただ様々な学者の諸説を承るのみだが、それでも次のような自己流の解釈が出来上がっている。素盞鳴尊(すさのうのみこと)を始祖とし大国主尊(おおくにぬしのみこと)が完成した豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)という出雲王国は、朝鮮半島からの渡来人と渡来文化を中心に裏日本に広まり、大和平野や、糸魚川を遡って諏訪にまで達していた。大国主尊の息子の権力争いで出雲王国が衰えを見せ始めた頃、日向に発し天照大神を始祖とする天孫族が勢力を伸ばし、大国主尊に覇権を譲れと迫り、平和的に大和王朝の覇権を確立した。交換条件として大国主尊は出雲における祭祀権を要求し、大和王朝は巨大な社を建てたが、祭司には天皇家の王子を充てた。以降の天皇3代にわたって、皇后は大国主尊の子孫をめとり懐柔を計った。
当初の神殿は高さ32丈=96mと記録されているが、その後16丈になり8丈=24mになって今日に至る。10年前に現神殿の前に直径135cmの杉の巨木を3本束ねた柱9本の地中部分が偶然発掘され、超高床神殿の言い伝え・文献と、代々伝わる柱の配置平面図の古文書と整合した。
天皇家に代々伝わる三種の神器のうち、鏡は太陽の象徴で太陽信仰の大和王朝のものだが、勾玉(まがたま)は三日月の象徴で月信仰の出雲王朝のもの、青銅剣も出雲の特産だった。大和王朝が出雲文化と大国主尊に格別の恩義と敬意を感じて大事に扱ったことが推察される。
その瑪瑙(めのう)製の勾玉(まがたま)にこの度深く接した。ツアガイドが「会社の指示で寄らねばならぬ」と言い訳してバスを「伝承館」という勾玉製造販売の店につけた。店の主人に「どの商品が当地産の石ですか?」と尋ねたら「全部輸入材料です。当地産の石は皇室御用達などにしか使えません」と答えたので、仕方なく記念に勾玉の小品を買った。
その名も勾玉めく玉造(たまつくり)温泉のホテルに入った。夕食までに時間があったので、独りで町を散歩した。温泉が自噴する川沿いに勾玉製造販売の店があったのでブラリと入り「当地産の石はもう無いんでしょうね」と聞いたら、おかみさんが「少数ならまだあります」と見せてくれた。神武天皇がしていたような多数の石と勾玉を連ねた首飾が数点と、勾玉単体が十点ほどあった。当地産の特徴的な瑪瑙は濃い緑で「青石」と呼ばれるとのこと。New Zealand特産の翡翠も黒ずんだ緑だが、色はそれに近い。昔作った商品が売れ残っている感じだった。もっと華麗な緑色の輸入材料で作った勾玉がずっと安く売られているのだから、売れ残って当然だ。しかし出雲文化に思いを寄せる私はワイフのペンダント用に当地産の一つを購入した。それを入れてくれた紙袋に「伝承館」と書いてあったので驚いて尋ねると「観光バス用に国道に店を出しましたが、こちらが百年前からやっている本店です」とのこと。このおかみに聞くと、伝承館は縄文時代から緑、赤、白の瑪瑙を産してきた花仙山を持っているが、今はほとんど掘っていないとのこと。ずっと安く輸入出来るからであろう。それにしても、多分このおかみの夫であろう国道の店のおやじメ「本店に行けば当地産の石がある」と何故言ってくれなかったのか? もっとも私がそこで輸入材料の勾玉を買ったのが何よりの理由かも知れない。
出雲大社に参詣して昼食と買物に1時間半近い時間が与えられたので、独り大急ぎで飯をかきこみ走って「島根県立古代出雲歴史博物館」に駆け込んだ。目玉は上記の巨大な杉の柱の根本部分、それから推定される天守閣ほどの高さの神殿の1/10模型、出雲で3百数十振りまとまって発掘された青銅剣、などで大変見応えがあった。Museum Shopに寄る時間は無かったが、出口脇の売店を覗くと、出雲産の勾玉があった。横にはその原石まであったので、大喜びでそれを買い、鉱物収集に加えることにした。
濃い緑の勾玉に古代の出雲文化の華が見える気がする。 以上