上野の国立博物館で「春日大社 千年の至宝」(1/17-3/12)を見た。白状すれば、カメラのセンサの清掃を新宿で頼んだら、3.5時間後に取りに来いと言われたので時間潰しだった。しかし歴史と芸術の勉強になった。
春日大社の裏山は三笠山だと思っていたが違った。三角形の山で貴人に差し掛ける笠・蓋(「ふた」ではなく「かさ」)の形だから御蓋山(みかさやま)だそうだ。国土地理院の地図では「春日山(御蓋山)」とある。春日山とは狭義には御蓋山を指し、広義には背後のより高い花山を含め一帯の総称でもあるという。「平城京の東山」で山そのものが神だった。その神を祀る場所が古来麓にあり、そこに東大寺や興福寺等の仏教に学んで社殿を8世紀に建てたのが春日社(春日大社)だ。大化の改新の功で中臣鎌足が天智天皇から藤原姓を賜り、藤原氏が中臣氏以来の氏神をこの地に祀った。また藤原氏は氏寺を平城京に移して興福寺を西側に建立した。
春日権現と総称される春日社の祭神は実は5柱だ。本社には4柱の社が並ぶ。2社が氏神の男女神、2社は国家安泰のため常陸国から夷平定の神を招いた。藤原氏は4柱に加えて若い力を欲し、平安時代の1135年に男女神の子神を祀って若宮とした。本社は仏教流に南向きなのに対して、若宮は西向きとし、春日山を参拝する方角に合わせた。この5柱に神仏習合で本地仏が対応するようになった。習合が進んで春日社と興福寺は一体化し、春日社では祝詞に次いで読経が行われた。春日社は神域の中心には仏僧を入れなかったが、春日社も興福寺が管理した。しかし明治2年1868年の神仏分離令で、奈良県知事は廃仏毀釈に熱中した。仏僧は全て春日社の神職とされ、興福寺は無人寺となり廃寺寸前にまで追い込まれたという。
春日社では伊勢神宮と同様に、20年に1度の式年造替が行われる。但し伊勢神宮では、敷地が2つあって交互に新社殿を建てて旧社殿を解体するが、春日社では神様を一時期仮殿に移して工事をする。その際、「撤下」と言って神宝の古いものを関係者に下げ渡し、寸分違わぬ新しい神宝を制作して納める。古い方にこそ価値があるだろうに。但し明治年間に、神宝は一部を残してほとんど博物館などに移された。春日社はそれを神に対して申し訳なく思い、少しずつ精巧な複製品を制作して社殿に収めることを始めた。国宝の金地螺鈿毛抜形太刀の複製が昨年制作され納められた。
さて展示を見に行った話だった。平成館一杯に、博物館に移された神宝や、撤下された神宝が展示されていた。上記国宝の太刀の複製は、その制作過程をNHKが番組で紹介したのを偶々見ていたので興味があった。千年前のもので、鍔と柄が純金で(重いだろうに)、鞘は竹林で遊ぶ雀を襲う猫が精細な螺鈿で描かれて見事な黄金の太刀だった。TVでは全く同じに見えた複製品を制作した現代の名工達も素晴らしかった。
朱塗の4柱の社殿のうちの第4殿が会場に復元されていた。小ぶりだが階段で昇る高床が背丈ほどもある。軒下に「春日大社で最も美しい釣灯籠」が下がっていて、美しい瑠璃色に光っていた。金属製かと思ったが、木製黒漆だという。数mmの瑠璃色のガラスビーズがネックレス状に紡がれていて、直径30cmほどの六面に無数に吊り下げられている。中の灯が怪しく煌めいていた。1038年の藤原氏の寄進とも、鎌倉時代だともいう。どちらにしてもその時代に均一なガラスビーズを制作できたことに驚いた。
常陸の国から神は白鹿に乗って来たので、春日社では古来鹿は神の使いとして大事にされ、今日にまで至っている。多分広大な春日山に住んでいた鹿であろう。展示には鹿の彫刻や絵画に素晴らしいものがあった。
一つ感じたことがあった。神道は原始的なAnimismだから多神教で、キリスト教やイスラム教の一神教がより進化した宗教だという主張を時々聞く。しかし春日山のVideoで、深い森の神秘、山から立ち昇る霧の美、清純な水流の迫力などを見ているうちに、原始人ならずともこれらに畏敬の念を感じない訳にはいかないと思った。これらに超人間的な神性を感じれば必然的に多神教になる。その延長線上に、神でも仏でも崇敬する信心がある。神性を感じる森羅万象が豊かな日本だから多神教になり、単調な砂漠では一神教にならざるを得なかっただけではないかと感じた。 以上