風の盆恋歌
富山県八尾町の「おわら風の盆」をワイフと一緒に9月初めに見に行ってから1ヶ月以上経つのにまだ風の盆に拘っている。あの説明できない不思議な感動・魅力は何だったのか? 既報のように「若さへの憧憬と耽美」だったかも知れないのだが、それだけかとまだ首を傾げている。探求のために来年も行ってみようかと冗談半分でワイフと話し合っているところだ。要領は分かったから町長殿にご面倒を掛けなくても行けそうだ。
Amazonで「風の盆」で引くと本が11冊、CDが7件出てくる。その中からまず北日本新聞社発行の写真集「八尾おわら風の盆」を買った。活字が一つも無くて写真だけという写真集は思い出用には良い。Amazonには小説も幾つか出ている。Non-Fictionには興味があるが小説は時間の無駄と思っている私だから大して期待もせずに、一番古く元祖らしい小説をただ風の盆に免じて購入してみたら、これが実は素晴らしい恋愛小説で、早速私としては初めての、星5つの評価をつけて「この小説を知らなかったことを恥じた」と絶賛の書評をAmazonに送った。その本は、
「風の盆恋歌 高橋 治、新潮文庫 1987(と単行本1985年)pp 263」
私は通勤時間が長いから引きこまれて通勤1往復で一気に読み上げたが、もっと恵まれた人でも2-3往復では読める本なので、まだの方には読まれることを是非お勧めしたい。写真集と異なり「おわら風の盆」を見た人もまだの人も感動できる愛の物語だ。後で知ったところでは、この小説を佐久間良子が帝劇で1998年に主演し、それがテレビドラマ化されたので、風の盆が3万人の祭から30万人の祭になってしまったのだそうだ。
小説の筆者は金沢の旧制四高出身の松竹映画監督で、毎年9月風の盆には必ず八尾に滞在するという。その筆者の実体験をかなり織り込んだと思える構成である。人並み以上の人生を謳歌している主人公に、四高の学生時代に淡い付き合いのあった女性が現れ、運命のいたずらでそれぞれの安定した家庭を持ってやってはきたが、子供も大きくなった今改めて思えば、学生時代に本当に互いに好きだったのだと気付く。「おわら風の盆」の限られた日々にだけ日常の家庭を離れて毎年八尾で密会を重ね、遂には本人たちにとっては大変満足な破滅への道を辿る。
大事な舞台装置が二つあって、一つは風の盆と町の人々、もう一つは「酔芙蓉(すいふよう)」の花だ。八尾に行った時、確かにこの植木を売っていたがあまり気にも留めなかったことが悔やまれる。朝は白い花が夕方には酔ったように赤くなり、その日の内に落ちてしまう艶やかで悲しい花だそうだ。その花の通りに恋は進行する。新潮文庫の巻末には加藤登紀子氏の一文が添えられている。彼女の感性と筆力に感心して彼女を尊敬してしまったのだが、秀逸な書評になっている。「恋物語だが筆者は風の盆を描きたかったに違いない」という。私は風の盆の不思議な魅力に加えて、この小説の魔力にとりつかれてしまった感がある。
Amazonには「風の盆恋歌」というマンガも列挙されていて、小説のマンガ化らしかったがこれは遠慮した。もう一つ同題の石川さゆりのSingle CDが載っていたのでこれは購入した。聞いてみれば聞き覚えのある曲で、1998年の彼女の紅白の曲だった。女の情念を歌えば石川さゆりの右に出る歌手は居ない。歌詞をよく聞けば、「若い日の美しい私を抱いて欲しかった」と小説のエッセンスになっていた。
「おわら風の盆」の魅力が解析不能なのに対して、この小説の魅力は私にも分析できる。自分はこの人と結婚して人並みの幸せを享受しているけれど、若い頃出会ったあの人ともし結婚していたらどうだったのだろう、と時々考える人は多いだろう。現実の世界から1日でも2日でも隔離された別世界であの人と一緒になれたら、と密かな空想を抱く人も居るかも知れぬ(ワイフへ、俺はないよ!!)。現実の問題を伴わない空想の世界は純化される。男女を問わず強弱を問わず多分普遍的にあるこういった憧憬を、この小説は「おわら風の盆」という隔離世界で具現化している。潜在欲望の仮想実現がこの小説の魅力の本質ではなかろうか。石川さゆりのCDでは、二つの世界に身を割かれる苦悩と歓喜が歌われている。 以上