古典派経済学は、国富論の英人Adam Smith(1723-90)や、英人David Ricardo(1772-1823)等の主張で、経済は「見えざる手=市場」に委ねるべしとの自由経済主義だ。供給には(価格調整で)必ず需要が追随するから、経済規模は供給で決まるとし、貨幣は物々交換の仲介役だとした。
これに対して英人John Keynes(1883-1946)は、有効需要={金を払ってくれる需要で、消費+投資+政府買上+(輸出−輸入)}が経済規模を決め、古典派とは逆に需要が供給を決めると主張した。有効需要不足は経済規模の低下を惹き起すから、政府は時には借金してでも政府支出を増やすべきだとした。貨幣は物々交換の道具に留まらず独自の働きを持ち、利子操作で有効需要を操作できると言った。上記の差は生産が隘路だった18世紀と、需要が隘路となった大恐慌時代から近代の先進国経済との差だ。
「一般理論」と言えばEinsteinの「一般相対性理論」だが、経済学ではKeynesの「The General Theory of Employment, Interest and Money(1935-6)」が「一般理論」と略称される。Allgemeine TheorieにせよGeneral Theoryにせよ「これで全て説明できる」という気負いがある。
米ではKennedy/Johnson大統領は概してKeynes経済学に基づく経済政策を進めたが、Reagan大統領時代(1981-9)以降、新古典派の新自由主義経済が主流となり、英Thatcher政権もそれに乗った。新古典派の意味は広いがここでは、米人Milton Friedman(1912-2006)、米人George Stigler(1911-91)、米人Robert Lucas(1937-)が中心のChicago大の新古典派=Chicago学派を指す。政府規制は誤り易く有力者保護に傾くからこれを排し、規制緩和を進め、市場の力で経済を活性化させるという自由市場主義だ。
そのKeynes経済学を信奉する京大学派の新書を読んだ。
現代に生きるケインズ 伊東光晴 岩波新書 2006/5
筆者は1951年東京商科大卒、京大経済学部長、京大名誉教授だ。新書も難しいなあと思いながら読み終えたら「あとがき」に、「これは新書の形の研究書」「世のKeynes批判への反論書」だと書いてあった。道理で。
Keynesは、経済学は「Moral Science=道徳科学」で、(1)経済効率、(2)社会公正、(3)個人の自由、を追求する手段だと位置付けたそうだ。人間は不完全な知識しか持てないから失業したり破綻したりする。それに付け込んで巨利を得る人も出て効率と自由が奪われる。だから政府が政策で修正する必要があり、そのための自由制限は良しとする。例えばLondon株式市場は手数料が高く規制があって庶民が利用し難いが、New York株式市場は庶民が入り易く賭博場的で社会正義のためにならない。制限したLondonの方が優れているとしたそうだ。但しThatcher政権は1986年に株式市場の規制緩和に踏み切り、New Yorkよりも自由になったため、米投資会社も乗り込んで来て活況を呈したが、投機の弊害も増したと筆者は言う。
1930年代の米、1990年代の日本で政府が財政出動しても効果が限られたことが新古典派のKeynes派への攻撃になっているという。筆者は、財政出動がKeynes的な効果を上げるのは(1)それが呼び水となり民間投資が動く、または(2)僅かな変動を制御、の場合に限られるという。
Keynes理論には2つの武器があるそうだ。(a)財市場に関わる有効需要理論、(b)金融市場に関わる流動性選好利子論、であり両市場は別物と考える必要があるという。財市場にはコストという比較的安定な基準があるが、金融市場にはそれが無いために不確実な予想と投機が関係して変動が大きいから、それが混乱を生まぬ仕組みを政府が作る必要があるという。両市場を同時に最適化する政策は無いと断言する。80年代の日本では(a)のための規制緩和で(b)でバブルを起こしたし、90年代のバブル崩壊時には財政出動が(a)には効いたが(b)には効かなかったため、(b)が主因だった当時の不況に対する対策としては有効でなかったと筆者はいう。
筆者は、金融政策は過熱の引締めには効くが不況の浮揚には効かないという。金融緩和しても需要の無い実市場には届かないからだと。(松下註:Abenomicsの金融緩和は(b)に絶大な効果を生み(a)にも一部波及した)
新古典派を批判するKeynes派の考えが少し理解出来た。 以上