生憎の雨の中をワイフと小石川植物園の見学会に出掛けた。ワイフは初めて、私は学生時代にデートで来て以来だ。地下鉄白山駅と茗荷谷駅の中間に位置する市街地のど真ん中の広大な森で、年を経た巨木が林立する。五代将軍(1680-1709)徳川綱吉が幼少のころ藩主として過ごした館林藩の下屋敷→小石川御殿の場所だ。その一部に薬草を栽培する小石川薬園が置かれ、やがて屋敷は廃止された。1735年には青木昆陽がサツマイモを関東で初めて栽培した。そのうちに植物なら何でもとりあえず集めて薬効を研究するようになり、薬園が植物園化していった。明治になって帝大が出来ると、薬園なら医学部所属、植物園なら理学部所属と綱引きの末、理学部系に落ち着きしばらくは植物学教室が置かれた。関東大震災と戦災で大きな被害を受け、幾万人もの避難所となったという。今日では一般人にとっては入場料330円の、花見と紅葉が楽しめる森と庭園の公園だ。
園長の邑田仁教授が「Mendelの葡萄」の木に案内してくれた。ワイフが「Mendelはエンドウマメじゃないの?」と呟いたので我に返り帰宅後調べた。現在はチェコ領の修道士だったオーストリア人Mendelは、エンドウマメで「Mendelの法則」を発見し1865年に発表したが世に認められず、1900年にその発表が再発見された。その研究の目的は良いワインを作るための葡萄の品種改良にあった。欧州各地から葡萄の品種を取り寄せて修道院に植えて交配していたが、研究半ばで1884年に他界した。1913年にその修道院を訪問した植物学の東大三好教授がゆかりの庭に残る葡萄の枝を翌年入手し、小石川植物園に挿木した。ソ連時代のチェコでは修道院が1949年に閉鎖され当の葡萄は無くなったので、本家に逆に枝を送ったという。
隣の「Newtonの林檎」の木に案内された。England中部Lincolnshire郡のNewton生家にあった林檎の木の接木苗を、1964年に東大水島教授が贈られたという。上記葡萄やこの林檎の子孫が今日本各地で繁茂しているようだ。尤も、林檎が落ちるのを見てNewtonが万有引力に思い至ったというのは伝説だそうだ。第一腐るか台風ででもなければ林檎は落ちない。1726年出版の伝記に The notion of gravitation came into his mind,....by the fall of an apple, as he sat in contemplative mood. とあったのが原典である。Newton本人または筆者が話を面白くしたに違いない。
温室では小笠原諸島固有種が栽培されていた。野生は父島ツツジ山にたった1株生きているだけの絶滅危惧種ムニンツツジ(江戸時代に小笠原諸島は無人島=ブニンジマ・ムニンシマと呼ばれた)を種から鉢で増やして父島に戻しているという。「木になった草」があった。絶滅危惧種ユズリハワダンは1mほどの木だが、キク科で元々は草だという。Hawaiiや小笠原諸島は海の真ん中に突然隆起した「海洋島」だから元々草木はなく、鳥や海流が運んできた種で植生が生まれたそうだ。木々の陰で育つキク科も、遮る木が無かった小笠原では自ら木になれたという。人間組織も連想され社会学的に興味深い。1枚の葉が進化し葉柄が幹に葉脈が枝になった5mほどの蒟蒻の木、燭台大コンニャクがあった。スマトラ原産で7年に2日間、1m位のローソクを立てた直径1.5mほどの燭台型の花を咲かせるという。
温室を出て北西にしばらく行くと真っ黄色に染まった銀杏の巨樹があり、東大本郷の銀杏並木の親らしいと説明された。この樹齢3百年近い雌の巨樹で、銀杏には精子があることを平瀬作五郎助手が発見し1896年に発表したという。ソテツにも精子があることを直後に発見した池野成一郎助教授に外国語を手伝って貰い世界に発表した。そのソテツも正門近くにある。イチョウの花は4-5月に咲き、雄花の花粉が風に乗って雌花先端の種に付着し花粉室に入る。種はギンナンに成長し中に卵ができる。9月頃花粉は花粉管を出し中で精子を作る。それがギンナンの中を泳いで卵に到達する。コケ類・シダ類では精子は外界の水滴を泳いで卵に達する。高等植物では、花粉管が卵まで伸びて不動性の精細胞を卵に押し込む。イチョウとソテツはその中間的存在で、恐竜時代の生き残りと言われるそうだ。
雨の園内を一周し、黄色い実が一杯生ったカリン林、18世紀に植えられた記録のあるナツメ、クスやスズカケの巨樹群などを見て周った。 以上