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短編随筆シリーズ「うつせみ」より代表作 Photos of flowers, butterflies, stars, trips etc. '96電子出版の句集・業務記録

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うつせみGeneral
2019年12月13日
            小野小町

 12月早々に京都の某料理店を訪れ、今年最後の紅葉を楽しんだ。まだ見事だった東山の永観堂も見たが、小野小町が晩年を過ごしたという随心院の紅葉を久し振りに訪れた。地下鉄東西線が東山にぶつかって南下する先の小野駅から近い昔の小野一族の部落だ。京都の南だから既に紅葉は乏しかったが、本堂近くの好きな池周辺の紅葉は美しかった。寺院内を見学する内に奥まった所で、小野小町の晩年の姿を映した「卒塔婆小町座像」に初めて出会った。数十センチの老婆の彫像だ。ワイフは、この像から数十年を引き算すれば美女が想像できると言った。鎌倉時代の像だというから、9世紀に七十数年間の生涯を送った美女が亡くなってから数百年後の制作だ。参照する絵などがあったとすれば別だが、もはや写実は困難だったに違いない。しかし美女が好きな私は俄然小野小町に興味を持った。

 卒塔婆(そとば、そとうば、Stupa)とは、元来は仏舎利塔のことだが、転じて故人を弔う追善供養のために墓石の後に立てる木板のことだ。それと小野小町に何の関係があるのかと、Wikiを引いて無教養を恥じた。14世紀に観阿弥(異説も)が制作した卒都婆小町・卒塔婆小町(そとばこまち、そとわこ(ご)まち)という能楽が今日にまで伝えられており、三島由紀夫は1952年にそれを戯曲に翻案して文学座で上演したという。因みに明治時代に能楽と改名されるまでは、猿楽と呼ばれていたそうだ。

 能楽は次のような粗筋だ。杖をついた老婆が「昔は美しさに奢り、翡翠の髪飾りもたおやかに柳が春風になびくようであった。鴬のさえづるような声は露を含んだ糸萩の散り初めたよりも愛らしいとほめられた。しかし今我が身は百歳の姥だ。」と、桂川の朽ちた木に腰掛ける。そこに高僧が通り掛かり「お前が腰掛けているのは卒塔婆だからどけ」と言う。老婆は「自分は賎しい埋れ木だが心の花はあるから、例え卒塔婆だとしても手向けになる」と返し、形と心、善と悪、煩悩と菩提、仏と衆生はそれぞれ相反するものではないと言う。僧は感服して三度の礼をし、名を尋ねると老婆は「出羽の郡司小野吉實の娘(という説も)小野小町」と名乗る。話すうちに老婆はものに憑かれ、「小町の許へ通う」と叫び始めた。小町に想いを寄せて通ったが果たせず亡くなった深草少将に取り憑かれていた。

 勿論これは史実から遠い創作であり、如何にも庶民受けする筋立てだ。人口に膾炙された猿楽があった以上、卒塔婆小町座像は猿楽を下敷きにしたものに違いない、やはり小野小町の写実では無かったろうと思った。

 実在の小野小町は、10世紀初頭の古今和歌集の六歌仙に(死後に)数えられている。古今和歌集の歌の一つは、藤原定家が13世紀に選定した小倉百人一首に採録されていて、子供の頃懸命にカルタ取りをしたものだ。
 「花の色は うつりにけりな(色褪せた) いたずらに わが身世にふる
  ながめせしまに(世に降る長雨の(私が世に経る眺めの)間に)」
この歌は、昔自分が美人であったという自覚がないと、またその自覚を世間が認めていないと(不美人では)詠めない歌だ。小野小町が美人だったか否かという議論もあるが、この歌は美人を証明していると私は思う。

 古今和歌集の恋二の巻の巻頭には、小野小町の恋の夢の歌が並ぶ。
 「思いつつ 寝ればや(寝たからか)人(恋人)の 見えつらむ(見え
  たのだろう)夢と知りせば さめざらましを(覚めねば良かった)」
 「うたた寝に 恋しき人を見てしより 夢てふものは(というものは)
  頼みそめてき(期待し始めた)」
 「いとせめて 恋しき時は むばたまの 夜の衣を返してぞ着る
 (寝間着を裏返しに着て寝ると恋人が夢に現れるという俗信)」
こんな歌を贈(送)られたら例え相手が美人でなくても燃え上がる。

 小野小町は、天皇に寵愛された女官「更衣」=「町」(大部屋の仕切りを町と言った)で、先輩に「小野町」が居たので「小町」の説も。本名は「吉子」だとも。小野道風の祖父小野篁の子または孫だという。名門で美人で天皇寵愛の歌仙なら、周囲からの嫉みも相当なものだったはずだ。卒塔婆小町の老婆に仕立てれば売れると観阿弥も思ったのだろう。以上