度々車で横目で見て通る熱海海岸のお宮の松と貫一お宮の銅像の傍に何十年ぶりかで立った。百年前(1897-1902)に尾崎紅葉が「金色夜叉」を読売新聞に連載し購読数を飛躍的に伸ばした。その大事な舞台に選ばれた熱海の有志が、紅葉の高弟小栗風葉の句「宮に似たうしろ姿や春の月」を刻んだ石碑を熱海海岸に建てたので、傍らの松の大木がいつしか「お宮の松」と呼ばれた。1代目は枯れて直径1m近い幹の輪切りが、2代目の近くに展示されている。早速新潮文庫で「金色夜叉」を読んだ。何しろ百年前のことだ。東海道線は新橋始発で御殿場経由だった。国府津からは軽便鉄道が小田原経由で湯の町熱海まで通じていた。女性にだけ姦通罪がある男尊女卑の世で、既婚女性が夫以外の男を想うなど有り得ない話だった。
「夜叉」は「鬼神」だから「金色夜叉」は「金の亡者」だ。金の亡者になったのは間貫一、旧制高校の学生でエリート予備軍だ。卒業すれば一人娘のお宮の婿に入る婚約があった。貫一はお宮を熱愛していたが、数え19歳のお宮は絶世の美女で、貫一を憎からず思いつつも、皆から褒めそやされるにつけて自分の美貌には栄達の値打があるのではないかという自覚が芽生えていた。そこに富山銀行のオーナの息子富山唯継の求婚があった。ダイヤモンドとふり仮名を振った「金剛石」が唯継の指には光っていた。お宮は貫一に心を残しつつも唯継に嫁ぐ栄耀栄華を夢見て苦しむ。
お宮と母親は熱海に温泉保養に出掛け、父親が貫一に引導を渡す。貫一は熱海に駆けつけ、海岸でお宮を問い質して変心を知り、有名な台詞をいう。「……再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん……可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」と。泣いてすがるお宮を貫一は蹴り倒して出奔する。
お宮は唯継に嫁いで溺愛されるが唯継を愛することが出来ず、反って貫一への愛を自覚する。貫一は大学進学を諦め、復讐に燃えて高利貸となり富を築く。唯継はお宮の愛を得られぬまま芸者愛子を身請けしようとするが、気に染まぬ愛子は、別の金銭事情を抱えた愛人と心中を図る。それを偶々知った貫一は金で二人を救出して結婚させる。或る日突然お宮は貫一宅を訪れ、涙ながらに詫びを入れるが貫一は許さない。しかし投身したお宮を許した夢を見る。お宮からは切々と許しを請う手紙が何通も届く。金色夜叉はそこで突然終わる。紅葉の寿命が1903年に尽きたからだ。
高弟小栗風葉が後を続けた。そのスポンサ新潮社創立者の佐藤義亮氏によれば、紅葉の偽筆の名人紅葉門下の某が「先生の腹案書を持っている」と自作の偽物を小栗に売り付け、信じた小栗がそれに沿って美文調で書いた「終編金色夜叉」が1909年に大ヒットしたと。これがなかなか入手できず、八方探してやっと触れば崩れそうな「昭和10年婦人倶楽部4月号付録」を入手して読んだ。終編は本編の4割ほどの長さで、文調は本編と同じだが筋書きは到底同一人のものとは思えなかった。読者が期待する方向に安直にまとめた感じで宝塚のエピログのように分かり易い。本編+終編の文庫本が有りそうで無い理由が判った。貫一は親友の説得で高利貸を廃業し資産を奨学金に寄付する。富山家に家運の傾きが見える。お宮が遂に発狂し離縁されるに至って貫一はお宮を許し、引き取って徐々に正気に戻る兆しを見る。最後は二人が療養先の熱海の海岸で抱き合って終わる。
金色夜叉は日清戦争後急速に経済発展した日本での痛烈な拝金主義批判であり、本編の巧みな虚構は極めて面白く今日でも通用する。紅葉が(上記の偽物ではなく)どんな結末をつけるつもりであったかは、大いに興味を惹く。小学校は旧仮名遣いで学んだ私はさして苦労なく読んだが、「十九にて恋人を棄てにし宮は、...二十あまり五の春を迎へぬ。(25の春を迎えた)」といった美文調の文語は、若い人には一寸辛いかも知れない。菊池寛の「真珠夫人」を東海テレビが終戦後の社会に翻案して2002年の流行語になったが、金色夜叉も結末次第でその可能性は充分ある。
明治時代末期の日本の社会と人々を改めて垣間見ることが出来た。以上