漆喰こて絵という日本固有のフレスコ画があったことを知って驚いている。共に漆喰上の絵だが、西洋のフレスコ画は平面であるのに対して、こて絵はこてで凹凸のある漆喰面を作った上に彩色している点が特徴だ。伊豆の松崎町でそれに出会った。松崎町は伊豆半島西海岸の堂ヶ島の南隣だ。三島と石廊崎の距離を伊豆半島の長さとすれば、その南端から1/4ほどの位置だ。今は交通不便で知る人も少ないが、かっては養蚕業・製糸と漁業で豊かな町だった。その松崎に江戸時代後期1815年に長八という人が生まれた。貧しい農家の長男だったが手先の器用さに異才があり、地元の左官棟梁に弟子入りし、19歳で江戸に出奔して狩野派に絵を学んだ。26歳で江戸日本橋の不動堂表口の左右の柱に、漆喰の凹凸に彩色した対の龍を描いて大評判となり、左官の名人「入江長八」「伊豆の長八」の名を欲しいままにした。浅草観音堂、目黒祐天寺、成田不動尊などにも名作を残し大正時代まで人々に鑑賞されたが、東京の作品はことごとく関東大震災の火災で焼失した。残る作品60点を収集したのが、郷里松崎町の「伊豆の長八美術館」である。最初から可搬型に作られたこて絵もあり、どこぞにあったこて絵を切り出したものや、こて絵ではなく掛け軸もあった。盆の大きさに描いた静御前のこて絵、縦長大看板サイズに公家の女性が朝起き出した姿を描いたこて絵の「春暁の図」、東海道五十三次を思わせる富士山が見える風景のこて絵など、印象的なものがあった。受付で「細かいですから」と渡された拡大鏡で見ると、凹凸も筆遣いも確かに繊細だ。
長八のこて絵に心酔した建築家石山修武氏が、松崎町に作品の保存を説き、松崎町は町の活性化事業として美術館建設を決定した。石山氏が美術館の建物を設計し、日本左官業組合連合会が建設を担当して左官技術の粋を集め、「江戸と21世紀を融合させた建物」が1984年に出来た。石山氏はこの業績で建設界の芥川賞と言われる「吉田五十八賞」を受賞した。外壁をモダンなデザインで漆喰で製作し、一部は伝統のなまこ壁にしている。天井には漆喰の天女の舞があった。なまこ壁は、漆喰壁の強度と美観のために、幅5cmほどのなまこ型・かまぼこ型の盛り付けを多数竹矢来のように45度に交差して平面上に並べ、20cmほどの正方形を形作っている。
松崎には観光スポットが多いが、初心者には4箇所だ。上記@美術館を出てA中瀬邸に行った。明治時代に絹で栄えた商家で、外周りはなまこ壁、蔵の戸の内側には手の込んだこて絵があって美しい。家は立派な材木を多用した木造建築だ。一角にこて絵のアトリエがあり、額入りのこて絵に値札がついている。良い絵を見ると買いたくなる私の習癖がうずいた。「弥生」という可愛い署名の主は不在なのでどんな女性かと聞くと、長八の何代目かの弟子で50代の女性とのこと。漆喰の凹凸をこてで描く絵は粗いから、或る程度以上の大きさがないと表現し難い芸術と理解したが、大きいものは数万円もする。比較的繊細に出来ている葉書大の桜花のこて絵の額を1万円未満で購入した。持ち帰って照明で陰影ができる場所に掲げてみると、なかなか趣がある。伝統工芸とあればなおさらだ。
古い主要道路の両側になまこ壁の家が多いB「なまこ壁通り」を通り過ぎた。少し西南西に車を走らせてC「重要文化財 岩科学校」を訪れた。明治13年完工の小学校で、日本では甲府、松本に続いて3番目に古いという。漆喰壁、なまこ壁が黒い瓦と対照的だ。伝統技法で建てた西洋建築という点で松本の開智学校に雰囲気が似ている。内装は1992年に修復されているが、私達の小学校時代より更に古い学校の雰囲気と備品展示が面白かった。最近全部は言えなくなってしまった教育勅語と、戦時中低学年だったのでまだ覚えさせられなかった軍人勅諭のコピーを売店で購入した。
実は松崎町が目的で訪れたのではなく、南に隣接する南伊豆町の山奥、天神原の部落の裏山が山つつじの群生地で、町が本邦初公開とPRしたのを見に行った。山つつじは、レンゲつつじと同様オレンジ色の花をつける野生種だが、レンゲつつじよりも背が高く2m以上の木も多い。五分咲きの数千本の山つつじの間を歩き展望して季節に浸った。ここから1車線の田舎道を通って国道136号線に出たら松崎町だった。面白い休日だった。以上