大晦日から2泊3日の船旅で、世界遺産になった熊野詣でをした。日頃は久里浜−大分カーフェリーの、船齢20年11千トンの「しゃとるよこすか」を、フェリー需要が途絶える年末年始に某クルーズ会社がチャーターし、基幹要員は別としてサービス要員は全てアルバイト学生で安くツア客を募集した。名のあるシェフの料理は最高だったが、男女学生のサービスはさわやかな笑顔以外は最低だった。晴海埠頭を大晦日の2pmに発ち、元旦の朝紀伊半島南端の新宮港に着き、夜に発って朝方八丈島と御蔵島の間を通り、伊豆諸島を初島まで順番に眺めつつ2pmに久里浜港に入った。
私は学生の時に那智の滝を見て以来だが、ワイフには初めての熊野だ。熊野神社は3社から成る。海岸の新宮市から熊野川をバスで小一時間遡った山中にある本宮大社が首座を称している。少し南の那智大社は那智の滝で有名だ。明治の神仏分離までは一体だった那智山青岸渡寺と隣り合っている。もう1社は新宮市内の熊野川河口にある速玉大社だが、今回は割愛せざるを得なかった。古来京都奈良より、浪速から海路で来て田辺、勝浦、新宮から山に登るか、陸路吉野山を越えて来るかして、この3社を参詣した道が熊野古道である。熊野神社の神使はサッカー日本代表のマークである3本足の八咫烏(ヤタガラス)だ。神武天皇と兵が日向から大和に攻め入る途中、吉野の山中で迷った際に八咫烏が道案内をしたと記紀にあるのは、味方した3つの氏族であろうと言われている。
本宮はもとは、熊野川に注ぐ音無川との間の中州にあり、着物を濡らし身を清めて参拝するのが正式だった。主祭神は素盞鳴尊(スサノオノミコト)だが、ここではなぜか家津御子大神と呼ぶ。その両親の伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)を初め全部で14神が合祀され、上4社6神、中4社、下4社に祀られていたが、明治22年の大洪水で中社と下社は壊滅したので石の祠に替え、上社は解体して近くの現在の丘の上に移築した。お蔭で参詣者は百数十段の急な石段を登る。丘の上には中央に素盞鳴尊の社、右に天照大神の社があり、左の長屋に伊邪那岐命、伊邪那美命を含む4神が祀られている。いずれも檜皮葺きの古めかしい立派な社殿だ。奈良時代の神仏習合で、阿弥陀如来が家津御子大神の姿でこの世に現れたとされ、熊野大権現と称した。1090年に白河上皇が参詣の折、熊野三山を束ねる三山検校と補佐の別当を置いた。多くの荘園を持って権勢を誇り、田辺に居た別当が熊野水軍を養い、源平の戦いでは義経に味方した。また南北朝時代には南朝に忠勤を尽くしたが、南朝滅亡で勢力を失った。白河上皇は10回、後白河上皇は34回も参詣している。
那智大社と隣り合わせの那智山青岸渡寺は、観音菩薩を祀る西国第一番札所だ。4世紀に印度の僧が渡来して那智の滝に観音菩薩を感得して開基し、6世紀に大和の僧が椿の大木から観音菩薩を彫って祭ったとされている。歴史上仏教伝来の年代は6世紀の何時か諸説があるが、印度の僧の話はそれへのチャレンジだ。参詣道は大門坂という石畳と石段の杉並木600mがあって是非歩いてみたかったが、バスは渋滞しつつも車道で途中まで登ってしまった。そこから更に4百数十段の石段を登る。石段は途中でY字に分かれていて神社と寺に続いている。神社は初詣の人で一杯だった。寺の広場からは絵葉書の構図通り朱塗りの三重塔と那智の滝が見える。生憎この季節は水量が少なかったが、133mの滝はさすがに見事だ。
2社を訪れる間に、熊野川に合流する北山川を水中ジェット船で小一時間遡って奇岩の瀞峡まで往復した。亀岩や獅子岩などお決まりの岩がある。熊野地方には那智黒と呼ばれる真っ黒な石があり、高級な碁石や硯に使われている。那智勝浦町の海岸で採取され命名されたが、その源は北山川上流にあり、瀞峡の川岸にも黒い小石が散見された。彫刻の置物は少なく、粉末にしてプラスチックで固めた置物が沢山売られている。アクセサリー店では、黒珊瑚にも見える那智黒を24金で裏打ちしたペンダントを、昔美智子妃殿下がお買い上げになったと広告していた。豊富にあってほぼタダの那智黒に貴金属は妙な取り合わせだが、輝きは宝石並みだ。
船室に荷物を置いてバスで世界遺産を探勝する贅沢な旅だった。 以上