毎年見に行っている京都の紅葉だが、今年は紅葉の当たり年のようだ。京都の前に今年は(も)奈良市西ノ京の薬師寺を訪れた。ワイフも私もここの東塔が大好きで度々訪れる。模型も制作したし、平山郁夫画伯の絵(複写)も入手した。玄奘三蔵院には同画伯のSilk Roadの壁画一式がある。絵葉書などで薬師寺の手前に水面がある構図がしばしば用いられる。同画伯の絵に水面は無いが角度は同じだ。かねてからその視角で薬師寺を見たいと考えていた。地図で見当をつけて西ノ京駅からタクシーを飛ばし「大池」対岸に連れて行って貰った。ウン、この角度だ。しかし思ったより薬師寺がずっと遠い。ズームインして絵と同じ構図の写真をとった。
京都に戻り東福寺を訪れた。京都の物差しで言えば新しい寺だが紅葉の名所だ。13世紀初めの創建で、名刹東大寺と興福寺に比肩すべく一字ずつ貰ったという。洗玉澗(せんぎょくかん)と呼ぶ小渓谷が楓の木々で覆われている。渓谷の両側に広がる寺域を結ぶ渡廊下が3つあり、真ん中の通天橋は紅葉の雲を見下ろす独特な視角で有名だ。私なら「渡楓橋」と名付けたい。下流の臥雲橋は一般道だが、紅葉の向こうに通天橋を見上げる無料の絶景ポイントだ。楓の木によっては真っ赤に紅葉していたり、まだ全く緑だったり、過渡期だったりの色模様だった。渓谷には昔桜が植えられていたが、遊興の地になることを恐れて楓に植え替えたという。その結果紅葉の時期に私のような観光客が大挙して押し寄せるのだから皮肉だ。
翌日は山陰本線で、2階建に新装オ−プンの嵯峨嵐山駅に降り立った。まず清涼寺(嵯峨釈迦堂)を訪れた。紅葉の名所に数えられないが隠れた穴場だ。印度から中国に渡った古い釈迦像を、10世紀末に宋に留学中の東大寺の僧が模刻して日本に持ち帰ったのが、この寺の本尊で国宝である。素人目にも分かる初期仏像だ。胎内から千年前の布製の五臓六腑が発見され展示されている。本堂周辺、特に裏側の庭園の紅葉が素晴らしい。
北上して山麓の直指(じきし)庵を訪ねた。瀬戸内寂聴女史が、岩手県浄法寺町、化野念仏寺に近いご自分の寂庵と共に、ここ直指庵でも毎月法話をしておられるという。禅宗の大寺院が衰えた幕末に、大河ドラマで星由里子が演じた近衛家の老女村岡局がここに入り中興したそうで、局の墓所があった。山麓の森の中だけに木々の背が高く、樹冠の紅葉が頭上高くドーム状に連なる。古い由緒ある草庵の雰囲気が満ち満ちていた。
広沢池にまどろむサギと東岸の紅葉に癒されてから、嵯峨野随一の広大な名刹大覚寺に入った。嵯峨天皇(809-823)の離宮だったのが没後に寺になり、その後南朝系=大覚寺系の法王が政務を行ったため嵯峨御所と呼ばれ、今日の正式名称は「旧嵯峨御所 大覚寺門跡」である。境内の大沢池周辺と庭園に見事な紅葉があり、境内の菊展と併せて鑑賞した。
化野念仏寺に近い紅葉の奥の店で湯豆腐の昼食をとった。紅葉をもっとよく見たいと障子を開けようとしたら「150年前の障子ですから触らないで」と書いてあった。嵯峨の人形の家には、杉の木から彫り出して彩色した嵯峨人形を初め日本全国の古い伝統人形を、事業に成功した大阪の夫妻が20万体集めた内の1万体を展示していて見応えがあった。数点の手回しのカラクリ人形の展示も珍しかった。平家物語第1巻の悲話の舞台である祇王寺は再訪せず、垣根から背の高い紅葉を覗いただけにして、隣接した檀林寺の紅葉の庭を見た。美女の誉れ高かった嵯峨天皇の奥方の檀林皇后が創立した寺だ。皇后をかたどったと言われる母尊像の本尊は、現代基準では美女には見えなかった。美女基準の変遷であろう。歴史に出てくる皇族の肉筆文書多数と、一刀彫の登り龍の彫り物が目玉だった。
小倉山山麓の二尊院は、人の誕生を司る釈迦如来と、寿命の最後を司る阿弥陀如来の二尊を本尊とした「小倉山二尊教院華台寺」だ。道路際の総門から本堂までの百米余の両側が深紅の紅葉の並木だ。紅葉に囲まれた鐘楼では誰でも3点ずつ撞くことができる。「小倉餡発祥之地」という石碑があった。和三郎という人が、809年に空海が中国から持ち帰った小豆を栽培し、御所から下賜された砂糖で餡を作り御所に献上したという。
今年の京都の紅葉は赤が鮮明で格別に美しかった。 以上