アマチュア言語学研究者の私としては大変興味深い講義を聞いた。東大にIRCN=International Research Center for Neurointelligence=ニューロインテリジェンス国際研究機構という研究所がある。人間の知性を神経科学から見る未開拓の新領域を対象としている。2017年に設立されたばかりの新しい研究所なので、今の所東大の各研究所各研究科の教授や研究員の兼任が多い。元来それぞれの組織で研究していた研究員にIRCNが予算を付け全体的な方向性を求めて行こうとしているように見える。こういう研究所では、Out-Reachと言って研究内容を一般市民の門外漢に紹介することが、使命感でもあり義務でもあって、時々講演会が行われている。
そういう講演会の一部で面白い講演を聞いた。講師はIRCNでは珍しい専任で助教の辻昌(Dr. Sho Tsuji)という美女だった。Webに氏の博士論文があり、表題の下にオランダ語で1984年独Dortmund生まれと書いてあった。オランダ語は知らないが独語に似ている。独Humbolt大卒、日本の理研で研究員、オランダRadboud大でPhD、Parisで研究、Pennsylvania大で研究、今年4月からIRCNだ。日英独仏和語が自由に駆使できるようだ。一貫して1歳までのInfantの言語発達の研究一筋だ。1歳未満児を日本語では何と言うか? 幼児は大き過ぎるし赤ん坊は小さ過ぎる。乳児だろうか。
幼児が言葉を使うには、語彙力や思考力や口の運動能力など様々な能力の発達が必要だが、6-12ヶ月の乳児は、語彙の聞き取りや発語が出来ないうちから、真っ先に発達するのは音素(子音や母音)の認識能力と、各言語特有のリズム感だそうだ。前にTV番組で見たのだが、Hindu語では明確に区別されるが我々には同一音素にしか聞こえない1対の音素があって、日本人でも英人でも、生まれたばかりの乳児はキチンと区別できるが、日本語や英語の環境で1年も過ごすと区別できなくなるという。
辻氏の239頁の博士論文を拾い読みすると、無数の例外や条件付きがあるものの、大きく言えば生まれたばかりの乳児は、広範囲の音素を区別できるという。以前見たことがある別論文では、独国歌の"uber alles"のu-Umlaut(uの上に2点)の母音[y]を、驚くことに日本人の生まれたての赤ん坊はイともウとも区別できるが、半年から1年の内に区別できなくなるという。長じて仏語や独語を学ぶ際に、この発音を習得するのに我々は苦労する。親、主として母親から話しかけられる乳児は、聞こえてくる音素の認識能力を強化し、聞こえてこない音素の認識能力は退化させ、万一聞こえてきたら既知の類似音素として認識するようになるそうだ。
でも、会話が成立しない乳児の認識をどう検出するのか? 上記TV番組では、音素を聞いた時の脳の活性化領域が微妙に変化することを、乳児の頭に取り付けた多数のセンサで検出していた。辻氏が説明した方法は面白かった。「パパパパ」と乳児に聞かせる。時々「パパパポ」と聞かせ、その時に限って斜め前方に乳児の注意を引きそうな玩具を出す。すると乳児は「パ」と来るはずのところに予想外の「ポ」が来る度に、玩具があっても無くても斜め前方を見るようになるそうだ。その乳児に様々な音素を聞かせて反応を見る。辻氏の一つの特徴は、日本を含む複数国で実験し比較ていることだ。ただ「実験するから赤ちゃんを貸して」と月齢の揃った乳児を複数人揃えるのは、どの国でも容易ではあるまい。
乳児が必要音素の認識能力を強化するには、(母)親の語り掛けが必須だそうだ。常時語り掛けてくれる親と、忙しくてあまりかまってくれない親とでは当然発達度合が異なるのだろう。辻氏によれば、母親をVideoに撮って、同じ語り掛けを画面で行っても、全然効果が無かったそうだ。その差が何であるかを調べるために、ユルキャラのような人形のVideoで、しかし乳児の視線や動きに実時間で反応して対話的な語り掛けをすれば効果があったという。勿論Skypeでも有効だろう。こういうInteractivityを、学会では随伴性というそうだ。随伴性のある者は自分に教えてくれる者、つまり親、だと乳児は認識するのだという。乳児の発達に(母)親や家庭環境が如何に重要であるかが判る気がする。
言語能力は知性の最たるものだ。辻氏の研究の進展を祈念する。 以上