憧れの南米随一の観光名所Machu Picchuを遂に見た。2泊3日の予定が洪水による足止めで6泊7日になってしまい、精神的に大変だったし幾つかの他の観光が出来なかったが、それでも見られて良かった。
周知のようにMachu PicchuはAndes山中のInca帝国の遺跡だ。「Andes山脈」と私は習ったので尾根続きの山脈を想像していたが違った。Andes山脈は「日本山脈」のようなもので、その中に川が削り出した幾つかの尾根続きの山脈もあり、高原もある。Andes山脈も大陸分水嶺も南米西海岸のすぐ傍にあり、Machu Picchuを含めてその東側はAmazonに流れる。
中南米には紀元前から発達した文明があり、日本の縄文・弥生文化以降に匹敵する。Inca文明は織田信長の安土桃山文化の時代だ。Incaとは帝国の王のことだったが、西洋人が民族や文化を表す言葉にしてしまった。
Andes山中33百米の高原のCuscoが15世紀初めのInca帝国発祥の地で、帝国の首都となった。Inca=王の中央集権と強力な軍隊と官僚機構で四方の異文化を征服し、EcuadorからChileに至り、西海岸からAmazon水系に至る大帝国を構築した。Inca帝国の家族と被征服国の有力家族を強制的に交換移住させ、Quechua語とAndesの雪山の山岳信仰を強制した。
しかしIncaの跡目争いからEcuadorのQuitoに「北朝」が成立し、正当な「南朝」との間に激しい争いが生まれた。また被征服側の反乱が相次いだ頃、1532年にスペインの63騎の騎兵と200名の歩兵を連れたPizaroが、被征服側を味方に付けてPeruの地に侵攻し、遂にInca帝国は滅びた。
Machu Picchuとは「古い山」だ。山名であり、その鞍部の遺跡名であり、麓の観光都市の名だ。Machu Picchu遺跡はIncaが15世紀後半に建設した雪山を望む聖地だったが、スペイン人が持ち込んだ天然痘の蔓延で放棄され、1911年に独人学者が発見するまで熱帯雨林に埋もれていた。
我々は1月23日にPeruの首都LimaのCallao港で下船し、Cuzcoまで飛び、バスで36百米の分水嶺を越えて27百米の「聖なる谷」に入った。高山病にならぬよう体を慣らすため昼食や民芸品市で半日を過ごして1泊した。翌24日午前中は「聖なる谷」のOllantaytambo遺跡を見た。Urubamba川に面した斜面に石積みの段々畑が広がり、ワイナリ跡があり、高見にはスペイン侵攻で建設が中断された寺院があった。切りかけの岩があった。芦の繊維に砂をまぶして岩を切ったというから気の長い作業だ。
近くの駅から標高20百米のMachu Picchu駅まで、Urubamba川右岸に沿って43kmの行程で7百米下る途中駅のない100分の列車の旅の後、バスで上って24百米のMachu Picchu遺跡に到着した。Machu Picchu遺跡の有名な観光写真は、近景に石積みの遺跡、中景に砲弾型の岩山、遠景にAndesの雪山がある北向きの構図だ。砲弾型のWayna Picchu山の頂上には礼拝所があるが、往復1時間半と聞かされ登山は諦めさせられた。カメラの位置は29百米Machu Picchu山の中腹にある見張小屋で、その下には主食のトウモロコシやCocaを栽培した段々畑がある。偶々そこに野生のLlamaが居た。
鞍部の遺跡では、迷路状の小道でたどる石積みの塀のような壁が、住居・礼拝所・王宮などを分ける。自然石を切り割った一人で運びやすい石が積まれているが、寺院や王宮は巨岩を平面で切って巧妙に組み合わせている。石で三角形に尖った壁を作り、竹か丸太を渡して芦で屋根をふいた。冬至・夏至の日の出・日没位置を正確に考えた窓が開いている。 ガイドは当初超緩慢な歩調で我々を慣らそうとしたので、私は少々イラついた。しかし全員が疲労し始めた頃を狙って「往復してもいいし、ここで休んでいてもいい」というOptionを連発し始めたので、私共は全域を踏破することができた。最後は私共二人だけが見張小屋まで登った。
Machu Picchu遺跡から見ると、真南にAndesの聖なる雪山Salcantay山 6,271mがあり、冬至の日の出の位置と日没位置が丁度左右対称になる山容だという。そういう特徴がある首都Cuzcoからそれほど遠くない場所を聖地として衛星都市を建設する充分な必然性があったとされている。
富士山同様、登らぬ馬鹿二度登る馬鹿かも知れぬが、是非訪れたかったMachu Picchuを満喫し、世界遺産見学をまた一つ増やせた。 以上