管理者から離れて久しいが、だからこそ自由に言えることもある。
昔の東芝では、管理者は士官だから自分で鉄砲を撃ってはいけないと教えられた。自分で撃つことに夢中になると射撃命令のタイミングを逸するし、たとえ自分が百発百中でも、部下百名の命中率を10%向上させた方が効果的だという訳だ。私はよくこの禁を犯し、半田付けの上手な奴は出世しないと揶揄された。この教育方針のおかげで、仕事はカラキシ駄目だが部下の心を掴むのが上手い肩叩きマネージャが闊歩した。目標が明確で管理者の判断がさして重要でない業務はそれで良かったが、世の中が複雑化し管理者の旗の振り方で成否が決まる難しい業務が増えるにつれて、肩叩きマネージャは淘汰されていった。管理者が自分で仕事をしていないと、いざという時に機敏に自信を持って判断できないからだ。
部下の箸の上げ下ろしまで意のままにならないと気が済まない管理者も居た。部下を100%支配すれば気持は良いのだろうが、こういう管理者の下では実はあまり業績は上がらない。自ら考えることをせず意見も言わず専ら指示を待ち、指示通りにロボットのように動く部下ばかりが育つからだ。昔の軍隊や比較的単純な一種類の商品を売る販売会社のような、目的がはっきりしていて判断に迷う余地の無い組織は、独裁管理者と絶対服従の部下でもやれる可能性がまだある。しかし研究は言うに及ばず同じ販売組織でも複雑な多種の商品を扱う場合には、ロボット社員ではやれない。米軍ですらテロ討伐には、上官が絶対ではなく兵士一人一人が考えて行動する部隊が必要と悟り、訓練を始めたという。軍隊の大革命だ。
絶対支配型の上司に意見を言うのは鬼門だが、うまく使う要領もある。「明日は晴れると思います」というとそういう上司は何を生意気なことをと反発する。「夕焼けが綺麗ですね。明日の天気はどうでしょう」と言えば「夕焼けの翌日は晴れるものだ」と上司は断言する。「上司が明日は晴れると言った」と吹聴すれば権威付けができ、社内で通り易い。
業績が上がった時には自分の手柄にし、業績が悪い際には部下のせいにする管理者も居た。それでは勤労意欲を燃やす部下は居なくなる。管理者は逆でなければならない。成功は部下に帰し、失敗は自らに帰す。人間は誰でも成功は自分の貢献で失敗は他人のせいだと思いたがる傾向があるから、公平に行動した程度では身勝手な管理者に見える。
管理者は人格を問われる。仏教でいう利他、キリスト教でいう慈愛が自然に身に付いているかどうか、他人より自分に厳しくできるかどうかが問われる。部下への敬意と愛情を持ち、自分に厳しい倫理観が確立している管理者なら、無理なく成功を他人に帰すことができる。部下への愛情があれば、部下の人生と幸せを大切に思う気持が生まれ尽力出来る。部下を育て、自分の後任を見出し育成することは管理者の義務でもあり楽しみだ。後楽園の語源は「先憂後楽」で水戸徳川家の家訓だ。部下より先に多くを憂い部下が喜んだ後に自分も喜ぶ。管理者はこうでなければならない。
上司と部下の間に意見の相違は付きものだ。上司への敬意が失われることなく堂々とそれが議論されるようでないと、闊達な組織とは言えない。しかし議論の挙句に、互いに相手の主張は理解出来るものの同意は出来ない「水掛論」「見解の相違」まで行ったら、上司に従うのがサラリーマン道である。水掛論になる位ならどちらに決めてもそれなりの論拠はある。意に反して上司の意見に大枠では従っても、自分に任された尤度の中では最大限自分の意見を生かしていくことは大抵の場合出来るものだ。
私は部下との間で水掛け論になったら、コサイン30度ルールを用いた。私の進みたい方向と全然異なる方向に部下が進んでも困るが、30度くらいの方向差なら激励して部下の好きなようにしてもらう。30度方向が違っても私の方向の成分は cos 30 = 87% もある。無理に私の方向に軌道修正したために部下がモラルダウンして13%以上能率が低下するよりも、思い通りに頑張ってもらった方が多くの場合に良い結果が得られる。
上司は部下を選べるが、部下の上司選択はリスクを伴う。だからこそ管理者は部下に深い慈愛を持たないと組織に歪みが溜まり破綻する。 以上