「失敗は成功のもと、と言いますが、逆も真なり、成功は失敗のもとです」と私は言った。名古屋は中部大学の夏季ビジネススクールでの講義初体験でのことだ。「光学カメラ大手はデジカメに出遅れ、家電王国は量販店時代に出遅れ、無敵武田騎馬軍団は長篠の戦いで惨敗したでしょう」と。長篠の下りは直前に復習したばかりだった。
名古屋に来たら徳川美術館を見ない手はないと大学の方に薦められ、講義の合間に都心の東北、大曽根から炎天を十数分歩いて美術館を訪れた。尾張徳川家が、代々伝わった美術品と屋敷跡を名古屋市に寄付したので市が美術館を建てたと聞いた。日光東照宮にも通じる徳川時代の豪華絢爛の美術品だけでなく、信長や秀吉の直筆の手紙など歴史的な文物もあり、興味深かった。一角に信長の鉄砲隊と武田騎馬軍団の激突を描いた長篠の戦いの大屏風があり特に興味を引いた。出口のミュージアムショップに 30cm x 60cmほどのミニチュアがあり、5千円は高いなあと逡巡したが歴史の転機を如実に表す絵が気に入って結局購入してしまった。
六双つまり六つ折れの屏風だ。右端に長篠城が描かれている。場所は浜名湖の北方、新城(しんしろ)市の東で、今も長篠の地名が地図に残る。徳川家康の家臣奥平貞昌(城死守の功績で信長から一字貰い「信昌」、長篠に代えて新たに城を築いた所が新城)が城兵5百で守るこの城を、遠征してきた武田勝頼が1575年に15千人の大軍で包囲し落城寸前に至った。家康は同盟者織田信長に援軍を求め、織田30千人・徳川5千人の連合軍が到着して西側、屏風の左3双を占める。屏風中央に設楽原(したらがはら)が広がり、中央に連吾川が流れている。織田軍は岐阜からはるばる担いできた丸太を組んで川岸に幾重にも馬防柵を巡らせ、その後に3千挺の火縄銃を構えた。武田軍は城の囲みを解いて西の連合軍に騎馬軍団で襲い掛かった。屏風絵は緒戦の様子だが、実際は騎馬軍団が川と湿地に馬足をとられ柵でもたつく間に、織田軍は兵を3組に分け交代で銃撃する「3段撃ち」を繰り返して武田軍を撃滅し、追撃した。8時間の戦いで武田軍が10千人、連合軍が6千人を失い、武田勝頼はほうほうの体で甲府に逃げ帰った。武田滅亡の第一歩であり、織田・徳川が隆盛を得た端緒であった。
この歴史的瞬間を描いた絵を眺めているうちに、ふと妙なことに気付いた。待てよ、幾ら鉄砲でも一遍に勝負がつく訳ではなかろう。何度も攻め掛けて撃退されたのだろうから、こりゃいかんと思えば、西側は放っておいて再び城攻めに専念し、連合軍が城救援のためにやむを得ず柵を出て川を渡ったところで騎馬軍団を差し向ければ結果は違ったのではないか。なぜ何度も信長の懐に不利な突撃を繰り返したのだろうか?
そこで歴史を調べて見た。武田にとっては城の一つや二つは実はどうでもよかったのだ。上り龍の織田を早い時点で叩き潰しておかないと禍根の種になると、信玄の時代から織田を誘き出す目的でこの地方の家康の城を幾つも何度も攻めていたらしい。信長もそれは百も承知で、家康の援軍要請に結局応えなかったり、落城寸前で出馬し落城の報で踵を返したり、家康に不義理を重ねつつ武田との対決を避け、武田に勝てる戦備を整える時間を稼いでいたらしい。家康への不義理もそれを見ている周辺の武将の不信も限界に達して、今回は信長も出馬せざるを得なかった面もあり、戦備もようやく整った訳だ。だから勝頼は、念願かなってやっと出てきた信長にしゃにむに突っかけたらしい。三方ケ原の戦いで武田信玄は30千人の兵で徳川軍を圧倒したが、長篠では勝頼はその半分の15千人で遠征して来たのも信長を誘き出す作戦の一環という説まであるくらいだ。
それにしても理解に苦しむ。2-3度突撃に失敗したら信長の設えた舞台で戦う不利を悟ってもよさそうなものだ。敢えて推察すれば、個々の突撃は武田軍の完敗ではなく連合軍にも相当な打撃を与えたのであろう。もう一押しで信長の首が取れるという想いが猪突を繰り返させたのではなかろうか。無敵武田騎馬軍団に潰せない敵は無いのだというそれまでの栄光の実績に基づいた絶対の自信もあったに違いない。ただ悲しいことにパラダイムが変わっていた。だから成功は失敗のもとなのだ。 以上