少し前のことになるが4月9日にワイフと一緒に吉野山を初めて訪れた。昨年熊野古道が世界遺産に登録された際、古道がある吉野山もついでに世界遺産になった。開花が遅れた今年は桜にはやや早かったが、吉野の歴史を感じた。後醍醐天皇の玉座があり御陵があった。南朝への忠義に殉じた楠正成(まさしげ)正行(まさつら)親子の武勇伝を子供の頃読み、中学高校の日本史では南朝が正統派で北朝は足利尊氏が擁立した傀儡だと習った。頭の中で今まで南朝と北朝を何となく並立させて考えていたが、吉野で南朝の玉座を見て、翌日春の公開日の京都御所を見たから、これは並立ではない、南朝は惨めな亡命政権だったのだと感覚で捉えた。義経が都落ちして静御前と別れ逃避行に入ったのも吉野だった。察するに都から山に逃れるとしたらそれは吉野だったらしい。山は険しく、そこに金峰山寺の僧兵が守りを固めていれば足利尊氏でも手出し出来なかったようだ。
問題は天皇家の分裂だった。88代後嵯峨天皇(在位1242-46)は第2子後深草天皇(1246-60)(→持明院統)に譲位して院政を敷き、やがて公平に第3子亀山天皇(1260-74)(→大覚寺統)に譲位させた。以来両統が皇位を争い、鎌倉幕府の干渉で交互に即位することが守られたり破られたりした。96代の大覚寺統の後醍醐天皇(1318-39)は、20人の女性に40人の子を成した精力絶倫のやり手で、親政で専制政治を敷こうとした。菅原道真を大宰府に追いやった60代醍醐天皇(897-930)の親政を継ぐ意思を示すため生前に自ら後醍醐と決めた。当然鎌倉幕府とは対立し1324年には討幕計画が発覚した。1331年に討幕の兵を挙げたが捕らえられ隠岐に流された。幕府は持明院統から光厳天皇(1331-33)を立てた。しかし退位を拒んだ後醍醐天皇は1333年隠岐を脱し、楠正成や幕府側の足利尊氏の協力を得て鎌倉幕府を遂に倒し、建武の中興(1333-36)を行った。しかしその専制は反発を招き、新田義貞を頼って足利尊氏と争って負け、吉野に逃げ込んだ。足利尊氏は持明院統から光明天皇(1336-48)を擁したので、後の人はこれらを南朝、北朝と呼んだ。南朝は足利氏の内紛に乗じて一時優勢になったこともあったが、足利3代将軍義満以降は室町幕府と北朝の支配が確立し、南朝は力を失った。1392年に室町幕府主導で南朝は三種の神器を持って北朝に吸収され、第100代以降北朝が皇位を継承した。
まず我々は吉野上千本の如意輪寺を訪れた。後醍醐天皇が彫った自らの小木像が特別公開されていた。宝物殿には楠正行が死地に赴く前に矢じりで扉に書き残した辞世の歌が展示されていたが、あまりの達筆ゆえに私は後世の作を疑った。裏山の後醍醐天皇の御陵では、鳥居の向こうの盛土に大木が生えている。吉野の一番上、奥千本にある金峰神社を訪れ、静御前と別れた義経が隠れていた小屋を見た。後の後醍醐天皇の時と異なり、僧兵は頼朝を恐れ義経を庇うことをしなかったらしい。中千本の吉水神社では、義経や弁慶が隠れ住んだ部屋もあったが、圧巻は後醍醐天皇の玉座だった。薄暗い三流旅館の広間のような所だったから、南朝の悲哀を実感した。時代が下って、豊臣秀吉が花見の宴を開いた庭もある。
吉野山の中心的存在である修験道総本山の金峰山寺は、本堂である蔵王堂の大屋根が稜線に聳え遠くからでも目立つ。秘仏である本尊の蔵王権現像が世界遺産を記念して特別公開されていた。次の公開は数十年後の解体修理だということだった。本来は釈迦如来を中心に千手観世音菩薩、弥勒菩薩のはずが、3体とも金剛蔵王権現の姿で現れた。その変身を「権現」というそうだ。迫力ある巨大な権現像が3体で参詣者を睨み付けていた。
天皇家が世界に例の無い長期王朝である理由は、時の実力者を鋭く見極め、巧みに乗り換えお墨付きを与え、自らの存在意義を維持してきたからだ。新憲法の前から象徴天皇だった訳だ。生来の精力からその伝統の知恵をかなぐり捨てて親政に走り、足利尊氏と闘ってしまった後醍醐天皇は万世一系を危うくした。これが南朝四代の本質だ。しかし尊氏も天皇家を尊重して北朝を立てた。後に織田信長は将軍足利義昭の名で天下を統一した。毛並みを象徴的に頂かないと実力が行使できないという事情は、世界史的には珍しいことだ。日本人特有の性格があるのだろうか。 以上