奥飛騨温泉郷平湯に一泊した。昔安房峠の旧道をスリップしながら越えて以来だ。1997年に安房トンネルが完成して通年通行が可能となった。高山方面から入れば奥飛騨の名はしっくりするのだろうが、松本から入るといきなり「奥」飛騨に入るから妙な感じだ。平湯は温泉量が豊富な所で、旅館街の各所で温泉を流しっぱなしにしてある。部屋専用の4畳もある浴室では、茶褐色の浮遊物を含む湯が24時間かけ流しだった。平湯からは北アルプス笠ヶ岳が槍ヶ岳のように尖って見え、しかし雪が積もれない槍ヶ岳と違って真白に冠雪していた。ふとスイスの山地を思い出した。
何時ものようにワイフが美容睡眠中に早朝散歩に出掛けた。急に思い立って「大ネズコ」を見に行く。ネズコの何たるかは知らぬまま巨樹信仰の私としては大変興味があり、国道158号線から平湯大滝への丁字路付近に標識があったことを思い出した。一番迷いそうもないその標識から山に入る。スキー場用の広い駐車場に案内板があり、炭焼きの里人には古くから知られた巨樹で必ず将来平湯名物になるからと大事にしてきたことが記されていた。山沿いの国道から少し入った場所にあるのかと思っていたが、1kmと距離が書いてあり、標高差のある山登りを覚悟した。
最初は四輪駆動車なら登れそうな幅と勾配の林道で沢を遡る。早くも動き始めた国道の車の音と沢の水音が競う。沢沿いに朴(ホウ)の若木が植えられている。朴は花が咲いた場所から新芽が出る。だから新緑の若葉の根元に黄橙色の花弁がまだ残っていて色の対照が面白い。森の下草は生命力溢れる熊笹だ。木々の梢は芽吹いたばかりで、若緑の中を登る。
あと500mという標識以降は狭い山道になった。国道の騒音が遠ざかると急に小鳥の鳴き声が大きく聞こえる。胡桃(クルミ)と山桜の森の道は上り下りしながら多少上りつつ水平方向に進む。フキの葉から白い花を咲かせたようなエンレイ草の花盛りだ。いやフキの花もあった。小さな谷を横切る際にはっと息を呑んだ。谷全体が二輪草の花盛りだった。二つずつ小さな白い花を咲かせる二輪草は八王子でも見かけるが、谷全体が二輪草という風景は初めて見た。川中美幸に教えて上げたいくらいだ。続いて山紫陽花(ヤマアジサイ)が多い斜面を行く。白い花は萼紫陽花(ガクアジサイ)そっくりだが、木は背丈を越える。急に道はジグザグと尾根の急斜面を登り始めた。真っ白な白樺から急に茶色のダテカンバに代わる。
喘ぎつつ登るうちに突然大ネズコが上方に出現した。林野庁選定の「巨樹・巨木百選」の石碑が立つ。それを見るまでもなく一目でそれと分かる威容だ。樹齢1000年とか。幹回り7.6mとあるがもっと太く見える。葉は樅に似て樹形はイチイのようだ。学名「黒檜=クロベ」でヒノキ科、米杉の親戚だとか。人が根元に近付かぬようロープが張られていて、熊笹の中にスックと立つ。しげしげ眺めるだけで寿命が伸びる心地がして、誰も居ない山道を標高差百数十米登って来た愚行は報いられたと思った。
巨樹の周りを巡りしばらく霊気に打たれてから、急いで帰路についた。今度は「平湯大滝まで600m」という道標に従った。急斜面に無理に作った階段が腐葉土と落ち葉でふかふかし足を滑らせそうだ。急坂を下り水平方向の熊笹の山道を行く。沢音が激しくなったと思ったら、二筋の沢が勢いよく下る谷で沢の間を行き来するジグザグ道で斜面を下る。また白樺林になった。炭焼窯の跡という標識があった。一寸した窪みが残るだけだが、昔はここで辺りの木を焼いて現金収入を得ていたという。
そこからほぼ平地の林となったが、そこで再び二輪草の群生に出会った。見渡す限り白い花だ。どういう写真を撮れば二輪草であることと群生の広がりを表現できるのかに苦労した。そこから橋を渡れば平湯大滝とスキー場の有料駐車場だった。熊に注意の看板があり鶯が勢いよく歌う。
野生の花をこよなく愛するワイフに二輪草の群生のことを話したら是非見たいという。朝食後車で後者の群生地の近くに路上駐車し森に入ったら、一眼レフと三脚を持った男性が2人既に熱心に写真を撮っていた。ワイフもこれほど広範囲の群生地を見たのは初めてだと「すごいものを見ました」と写真付きの携帯メールを友人に送った。 以上