連休中に伊豆諸島の新島(にいじま)を初めて訪れ、9世紀に出来た新しい島という意味だと知った。伊豆半島から見える伊豆諸島に、大島以外は行ったことがないのは少々無念で、今回急に思い立ち中でも面白そうな新島に1泊してきた。伊豆諸島は古来流刑地だった。罪人を落胆させるべく送り込んだ流刑地に、我々現代人は嬉々として金を払って行く。
新島は南北12km、東西3kmの細長い島だ。北端と南端に山があり、中間の平地に人口二千余名の本村(ほんそん)がある。新島村という行政区は、本村を中心に、北側の宮塚山432mを3.2kmの巨大なトンネルで抜けた最北端の人口四百名の若郷と、南側の島六百名の式根島から成る。宮塚山とその周辺には6,500年前の縄文遺跡があって古いのだが、886-7年に海中火山の大噴火が起こって南側の向山(むかいやま)301mが隆起し、中間の平地が形成されてから本格的な人口の増加が見られた。だから確かに新しい島なのだ。伊豆半島もそうだが新島も単性火山と言って、一度噴火した噴火口からは二度と噴火せず別の噴火口が新たに出来る性質がある。結局新島には20箇所近い噴火口があるが、9世紀以降は噴火していない。
新島の熔岩は珪酸(SiO2・nH2O)主体の流紋岩で、宮塚山では黒っぽい岩が断崖を成しており、浜の砂は黒い。所が南部の向山では、二酸化珪素SiO2の火山ガラス主体の火山灰を大量に堆積させ、「白ママ」と地元で呼ぶ真っ白い砂質を生じた。船で新島の東側を通過した際、初めて向山東面の白ママ断崖を見て驚愕した。向山はその後熔岩を大量に噴出して西側に抗火石(こうがせき)の山を築いた。多量の火山ガスを含む流紋岩マグマが地上で膨張して出来た軽石状の多孔質石英SiO2「石英粗面岩」である。生成状態によって水に浮くものから沈むものまで、白いものから濃い灰色まである。重いものでも石ノコで容易に切れるため、大谷石のように建築材料に使っている。この抗火石でモヤイと呼ぶ大石像を1979年から作るようになり、東京でも渋谷などに設置されている。観光土産の小さい彫刻もある。また抗火石を熔かした淡黄緑色のガラス細工が行われている。
新島中央部東側の羽伏浦(はぶしうら)海岸は白ママ断崖の下にあり、断崖から供給される浜の砂は真っ白だ。私の故郷山口県光市も白砂青松で、花崗岩の砂は不透明の純白だが、ここの砂は不透明の白砂と火山ガラスの透明な粒子が混ざっている。よく見ると波打ち際では波が運んでくる黒砂が勝っており、黒から白までのグラデーションになっている。ところが中部西側の本村前浜海岸では白黒反対のグラデーションが見られた。
羽伏浦海岸はサーフィンのメッカで、有名な大会が開催される。素人目にはWaikiki Beachと同じ大波が太平洋から押し寄せている。新島のこの時期の観光客の大部分はサーフィンボードを抱えた若者と、彼らが選りすぐって連れてきた女性であり、我々のような老夫婦は居なかった。
我々は下田から神新汽船の船で行った。下田→利島→新島→式根島→神津島→下田と、その逆周りを一日おきに繰り返しているが、乗客が少ない日にはよく欠航すると島民からの信用はイマイチで、島民の頼りは東京からの夜行の大型船と水中翼船、それに調布からの軽飛行機らしい。
新島の流刑第1号は、天宥(てんゆう)法印という。17世紀に羽黒山を改革し、後には中興の祖とされたが、改革反対派に讒言されて新島に流されてきた。以降明治初年に流刑が廃止されるまでに新島には1,333名の流刑者が来たという。流刑者は真面目に服役さえしていれば島内では比較的自由で、寺子屋を開いた人も、農事指導をした一揆指導者も居た。流人頭は十手を持っていた。しかし島内で重ねて重罪を犯した十数名は絞首刑や獄門に掛けられた。為朝神社というのがあった。保元の乱に敗れて伊豆大島に流された源為朝は、やがて大島の代官になった。伊豆諸島を歴訪し、新島を訪れた時には名主の娘との間に一子を設けたが、やがて八丈島に渡って行ったという。その際形見に置いていった家宝を祭っている。
新島は若者にはサーフィンの島かも知れないが、私共には自然が豊かな美しい島だった。一通り見てしまったから二度は訪れないかも知れないが、一度はどんな島かこの目で見たいという好奇心が旅を誘った。 以上