先日NTIS社の創立30周年記念式典があった。出席の葉書を出した後も出席をためらっていたが、「鏡割りをお願いします」と電話を貰って覚悟を決めた。NTISは私の重要な仕事の「対象」だったが、「舞台」だっとは言い難いので、私の出席がどの程度歓迎されるかをためらったのだ。
NTIS=NEC-Toshiba Information Systems=日電東芝情報システム鰍フ歴史は2つのフェーズに分けられる。30年前、コンピュータの主力がIBMに代表される大型汎用機だった時代に通産省が、電子計算機産業育成のために、力量順に富士通、日立、NEC、東芝、三菱、沖と6社あったメーカを減らす目的で、2社以上で組めば開発補助金を出すと決めた。結果的に1-2位、3-4位、5-6位が連携し、NECと東芝はNTISを新たに設立して形式上の開発拠点とし、補助金を割り振ってNECと東芝に開発委託した。そのため両社間で機種分担と協力関係が進んだ。これがフェーズ1だ。因みに1-2位連合は形は整えたが実質的に連合しようとはせず、5-6位連合は大したことはできなかったから、NTISは通産省の寵児であった。
当時の電子計算機事業は膨大な開発費を要する規模依存の事業だった。損益に関わらず果敢に先行投資して規模を稼いだメーカだけが事業展望を得た。世界中の総合電機メーカでこの事業を手掛けなかったメーカは無く、思い切った先行投資が出来た日立を世界唯一の例外として、成功した総合電機メーカは一つも無い。東芝も会社の存立を危うくする赤字をこの事業で出していた。折しも東芝の新社長に就任した経理出身の故岩田社長は、故棚次専務(後に副社長)に「電子計算機事業を何とかする」ように命じた。棚次専務が事業部の経営陣を一掃し、若手に総入替えした過程で、私は工場の開発部長から本部の企画部長に引き出された。短期間での権力移行のために止むを得なかった面もあるが、旧経営陣への過酷な苛斂誅求があり、個人的に大変お気の毒だった。私は東芝で経営者の名に値する先輩2人に出会ったが、棚次専務はその1人だった。お神輿に乗って部下に文句を言いハッパをかけ仕事を押し付けて責任を取らない他の幹部と異なり、自分で決断し自分で仕事をし、その仕事を部下に分担させた。
新経営陣は二三の経営改善案を出したが棚次専務の満足は得られなかった。棚次専務から出てきた構想は、東芝の大型電子計算機事業を社員ごとソックリNTISに営業移管してNECの主導権に委ねようという大胆なものだった。私達は当然身売りに反対したが、じゃそれに勝る対案を持って来いと言われた。一生懸命考えた結果、感情的に耐え難き点はあるが経営的にはそれしかないと納得した。私は棚次構想実現のため、しかし長年の仕事仲間の中期的利害を最大限考慮した営業移管案を作り、後にNECの法務部長に出世した若き契約担当と(守秘上東芝の契約担当の支援無しに)契約を折衝した。後日振り返ると、彼は巧妙な契約技術で私から一本取ったが、事業内容と将来動向を熟知していた私が彼から実質で数本取った。
1978年にこの営業移管が発表され、実行され、東芝社員6百数十名がNTISに出向となり、NTISのフェーズ2が始まった。NECはNTISに最優秀の人材を送り込んできた。NECの現社長金杉氏も主任として東芝出身の部長の下で異才を発揮した。今と違って当時は、東芝からNEC主導のNTIS社に出向というのは大変なことだった。会社への義理と仕事仲間への人情の板挟みで、江戸時代なら切腹だなあと思いつつ、代わりにバリカンで坊主になり、出向者の東芝復帰の見通しがついた2年後までそれを続けた。但しNEC主導下のNTISでは私の仕事は無く、社長付とか参与とかで干された。仕事仲間には多大な迷惑を掛けた犠牲の上に、経営的には大成功で、東芝から赤字事業が消え、NECは従来の開発費負担をあまり増やすことなく売上だけが増え、念願の2位浮上を達成した。
案ずるより生むが易し、記念式典とパーティは同窓会風で、極く少数の方を例外として、私を暖かく迎えてくれた。大型コンピュータの商売が縮む中で、NTISは30周年を機にNEC Total Integration Solutionと改名し、NEC 100%のインテグレーション事業会社としてフェーズ3に入る。修羅場をくぐった思い出と共に同社の発展を遠くから祈念する次第。 以上