6月に下田を観光して「唐人お吉」に興味を持った。お吉が経営した料理屋「安直楼」を見学し、身を投げたお吉ケ淵の祠を見た。引き取り手のなかった遺体を和尚が哀れんで葬った宝福寺にも行った。最初は質素な墓だったのが、お吉は日米親善に功ありと認められた1925年に「宝福院釈妙満大姉」という戒名が与えられ立派な墓所が作られた。絹の衣装などを収集した展示室があった。下田一の長身の美人芸妓だったお吉が、異人と通じたと後ろ指を指されて入水するまでの生涯を哀れに思い、もっとお吉のことを知りたいとAmazonを探した。伝記小説は幾つか出版されているのだが、ことごとく絶版になっていた。若い女性が誇らしげに外人と手をつないで歩く今日この頃、唐人お吉の物語は再版にも値しないのかも知れない。しかしAmazonが近年始めた中古本に望を託して時々Amazonを眺めていたら、先日やっと古書が出たので喜び勇んで購入した。
「唐人お吉 紅椿無残 中山あい子 講談社文庫 昭和62年」
お吉の話には、文献、伝承、創作の3段階がある。文献は、お吉、お福という二人の若い芸者が安政4年(1857)に月10両の超高給で米国の総領事Townsend Harris(1804-78、1855-1860在日)の身のまわりの世話のために出仕したが、お吉は足に腫れ物が出来て3日で返された、という数行の記述だけだそうだ。国辱事件だから記録を残すことが憚られたのであろう。明治23年(1890)にお吉が満48歳で没して三十数年経ってから、上記のようにお吉の業績を見直す動きがあり、下田の医師で郷土史家の村松春水が伝承をもとに「実話唐人お吉」を昭和初年に著した。その版権を購入してそれをもとに十一谷義三郎が昭和3年に小説「唐人お吉」を中央公論に、昭和4-5年に東京朝日新聞に連載した。それが映画化され戯曲化され、唐人お吉の名は一躍有名になり、下田港の観光PRに担ぎ出された。上記の講談社文庫はその延長線上の新しい本だ。お福や、他にもあったという外人の侍妾は忘れ去られたのに、お吉だけが有名になった所以である。
従って伝承と創作の境界は曖昧だが次の点は伝承史実だろうと思う。
1.お吉は幼くして篤志家に里子に出されて教養を積み、音曲に異才を発揮した。養家の没落で芸妓となり、美貌と技芸で下田芸者のナンバーワンになった。数え17歳の時に、通商条約を迫る米国の代表Harrisのもとに、交渉の引き延ばしの妙手として幕府によって送り込まれた。
2.3日目に一旦返されたかどうかは別として、Harrisの侍妾となった。
3.Harrisの帰国後お吉は下田で料理屋「安直楼」を開いたが、酒に溺れて店は傾き人手に渡った。
4.異人と通じた汚らわしい女と下田の人から軽蔑され疎外された。それへの反発が更に世間を敵に回し、アル中が進み、半身不随となった。
5.誇り高いお吉は惨めな生活よりも入水を選んだ。
小説によれば、お吉は家計を救うために3年の年季で芸者になるが、年季明けには幼馴染の船大工の恋人鶴松と一緒になる約束だった。その間に奉行から国のためにHarrisの侍妾になるように懇願される。高給の他に鶴松を士分に取り立てるという条件を出される。鶴松が蹴ってくれることを期待したのに「お侍になりてえ」と言われてしまって身を落とす。僅か3-4年でHarrisは帰国し、用済みのお吉は国禁によって同行を禁じられる。お吉は侍になった鶴松を横浜に尋ね、晴れて夫婦となる。鶴松は下級武士にはなったものの貧しさからは抜けられず、お吉は髪結いで稼ぐ。鶴松はお吉を汚く思う気持から抜けられず、夫婦喧嘩が絶えないうちに幕府は潰れ、鶴松は単身下田に帰ってしまう。お吉は旅芸人として年を重ねるが、一行が伊豆を通りかかった時に思い立って下田に帰る。鶴松はお吉の髪結いの稼ぎに頼って真面目に働こうとせず、役所に行っては元士分の俺を雇えとわめき散らすので、遂には暗殺されてしまう。昔お吉を想って逝った旦那が残した金で料理屋「安直楼」を開くが潰してしまう。酒を過ごして半身不随となり、遂には身を投げる。伊豆半島や伊豆諸島に多い椿の原種「やぶ椿」の紅い花の如く、華麗に咲いてポトンと落ちた人生だった。
美貌ゆえに人並みの幸せを得られなかったお吉の話は哀れを誘う。以上