私が学生だった頃東大総長だった故矢内原忠雄氏を偲ぶ催しがあった。1893年愛媛県生まれの経済学者、内村鑑三氏の最若年の直弟子で、私は「現代の預言者」(≠予言者)だと思っている。第一高等学校で新渡戸稲造校長の薫陶を受け、札幌農学校同期の内村鑑三氏に紹介されて門下に入った。1917年東大法科(経済学部独立は1919年)を卒業後住友に入社したが、新渡戸稲造氏が国際連盟事務次長に転出した後を受けて東大経済学部助教授として植民政策を担当した。1932年に満州旅行中の列車が反日の匪賊に襲撃され日本人が皆殺しになった事件で、氏の客室だけが奇跡的に襲われなかったことで、自分が生かされた理由を悟ったと伺った。植民地を支配する帝国主義先進諸国の貪りと偽善を激しく攻撃し、日本がアジア侵略を進めた時期に、国家の目的は正義であり、正義とは弱者を侵害圧迫から守ることであり、国家が正義に反しないためには国民から批判を受けるべきことを説いた。実際日本のファッショ化を鋭く批判したために官憲から不穏分子とされた。満州建国を認めなかった国際連盟を日本が脱退した時には「我が国は神の正義を蹂躙した」と嘆いた。南京大虐殺事件に悲観してキリスト教冊子で「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」と発言したことが批判され、1937年に教職から追われた。
1945年の終戦で請われて東大に復職した。1948年に経済学部長となった直後、1949年には南原繁総長に口説かれて新制東大の教養学部設立の初代学部長となった。旧制一高・東京高校の全人教育を引き継ぎ蛮風を排した新しい教育機関設立の目的で、南原繁総長の期待を負って一高の地に降り立った落下傘人事だ。教養学部は専門学部の予備門ではないという教育上の理想と一高族の意欲が合致して、学際的な3・4年生の課程も置かれ、後には大学院も設置された。氏自ら国際政治経済論を講義した。2年半後1951年には、南原繁氏の後をついで東大総長になり、1957年まで2期務めた。退官後はキリスト教活動に専念したが1961年に胃癌で逝去された。
今回教養学部創設60周年に当たり東大駒場で「矢内原忠雄と教養学部」の展示があり、6月13日には「矢内原忠雄とキリスト教」という講演・パネルがあったので参加した。久し振りに訪れると構内の巨木が一層印象的だ。左翼化した一高以来の伝統の駒場寮が取り壊されて、2002年に図書館2006年に駒場Communication Plazaが出来たため、正門に近い旧図書館は駒場博物館になり、そこで上記展示があった。寿命を悟っていたとされる1961年の最後の講演「内村鑑三と日本」(内村誕生百周年)が流れる中、氏の生い立ち、キリスト教との出会い、学術的業績、迫害、教養学部設立の想い、などが写真と字の多い看板で展示されていた。1:30pmから講堂で上記講演・パネルが行われた。驚いたことに3-400名もの出席があった。半分は恐らく私同様氏の薫陶を受けた白髪頭で、半分は若者だった。
4人のパネリストが30分ずつ講演し、その後全員で聴衆の質問に答えた。東大教養学部超域文化科学専攻(というのがあるんだ!!)の大学院で氏の思想を研究・講義し東大聖書研究会(無教会派)を主宰する川中子義勝教授、その教え子で博士課程の柴田真希都氏、東大教養学部出身で津田塾大名誉教授哲学専攻の三浦永光教授、矢内原氏のキリスト教集会に最後まで皆勤し今回の催しを主導した元東大医学部長の鴨下重彦名誉教授だった。私同様三浦氏や鴨下氏にとって矢内原氏は「感化を受けた先生」だが、川中子氏と柴田氏には「研究対象の過去の人」であった。
戦前戦中は右翼から迫害され、戦後は左翼から攻撃されたが、磐石の如く全くブレることがなく平和と正義を求め、迫害を恐れず語気鋭く神の真理を述べ伝え権力の驕りを諌めた氏は、まさに聖書の預言者と重なる。
上記講堂は54年前私が入学早々の駒場祭で、矢内原総長の講演を初めて聞き「当学に入学したからには(神の)真理を学びなさい」と言われた場所だった。衝撃を受けて月刊冊子「嘉信」を購読し著書を貪った。不肖の学生だったが氏の志の一端は受け継いでいる積りだ。常に講演者と聴衆の関係だったが、測量の実習で安田講堂前に巻尺を張っていた時、矢内原総長が「失敬」と言って私の目の前を跨いで行かれたことがあった。 以上