Liliuokalaniはハワイ王朝唯一の女王で、王朝の最後を画した。長すぎる名前を覚えている人は少ないかも知れないが、女王の存在はよく知られている。有名な「Aloha Oe」(Love to you)は彼女の作詞作曲で、別れねばならぬ恋人を歌ってハワイ国民への別れを表現したという。先頃Hawaii島Hilo市で早朝散歩した日本庭園は、元々は女王の国民への愛に応えた「Liliuokalani記念公園」であった。もう一つは、Maui島で彼女の姪の名をもつ「Kaiulani's Crown」という珍しい形の指輪をワイフが買った。金属の針金で2階建てのウェディングケーキのよう形を作り、2階の屋根にMaui沖で採取したという真っ黒な黒珊瑚があり、環状の1階の屋根に細かいダイヤを散りばめてある。横から見ると王冠型なのでこういう命名となった。
女王の自伝によれば、「呼吸みたいに自然に次々に曲が浮かび」、しかしMozart同様採番しなかったので散逸し、四分の一も残っていないそうだ。その四分の一が165曲あり、代表作がAloha Oeだ。女王自身がギターを弾いて歌ったという。優美なこの曲を作曲したのがハワイ最後の女王と聞いた高校生の私は、当時26歳で即位したばかりの英国のElizabeth U女王のような風貌を理由も無く勝手に想像し、そのまま最近に至っていたのだが、最近Webで見ると曙の妹のような写真が出てきた。ごもっとも。
彼女は1838年に生まれて早々養女に出されたが、長じて宮廷に仕えた。24歳でBostonから移住していた貿易商の伊人と結婚しHonoluluの邸宅に住んだ。結婚の翌年夫はOahu島知事となったが早世した。1874年に彼女の兄が王に即位し、米国に真珠湾を割譲するなどの不平等条約を米国と結んだのに対して彼女は猛反対した。1881年に兄王が世界一周に出た留守の摂政となった彼女は、折からハワイ国民に蔓延した天然痘が中国人移民の砂糖黍労働者が原因と判断し、直ちに港を閉鎖した。これで事業を妨害された裕福な白人の農場主は激怒したが、彼女は事業利益より国民の安全が優先すると、一歩も引かなかった。1891年に王の急死で女王に即位した時に「酋長階層の天上の者」を意味するLiliuokalaniを名乗った。米国はハワイ産砂糖の優先輸入枠を撤廃し、砂糖黍農場主に米国併合以外に事業成功への道がないことを思い知らせた。女王は王権の回復とHawaii人の権利擁護のため新憲法を自ら起草して1893年に提示した。女王の勅令で憲法を制定できる仕組みだったことが米国公使の危機感を呼び、公使は米国海兵隊162名をHonoluluに上陸させ宮廷と政府機関を占領して女王の退位を獲得した。交代した新任公使は前任公使が不法に女王を退位させたと女王の復位を認めたが、その条件だった前任者の特赦に女王が逡巡するうちに合併論者が米議会に働きかけて復位に反対させた。1894年に白人農場主を中心とする共和国が成立し、共和国は米国に併合を求め、1898年に米国はハワイを合併した。失意の彼女は心臓病で78歳で天寿を全うした。
今は正義の守護者を自認する米国も、当時は結構なワルだった訳だ。尤も当時は清国への阿片輸出を妨害されたからといって阿片戦争(1840-42)を起こし香港を割譲させた英国とか、仏印を確立(1858-87)した仏国とか、朝鮮の宗主権を巡って日清戦争(1894-5)に勝利し朝鮮を併合(1910)した日本とか、列強が植民地獲得に血道を上げていた時代だから、現代の倫理で判断しては気の毒というものであろう。ハワイ王朝の立場から見れば、白人農場主という階層を育ててしまったことが政治的誤算だった。
米国に併合されたことがハワイ人には幸運だったか否かは難しい問題だ。どうせ併合されるとしたら米国以上の相手は無かった。豊かなだけでなく、多民族を前提とした国造りの中で人種差別が最も少ない国だ。米国の保養地になったからこそ同じポリネシア人の中では最も豊かな社会が実現できた。しかしハワイ人の国ではなくなってしまったことはハワイ人にとっては不幸なことであった。南アフリカの黒人が「俺達の国」を持って幸せそうに見えたのとは対照的な面がある。
Liliuokalani女王がもっと妥協的で非国粋的だったら、王朝はもっと続いて委任統治から独立国への道もあったかも知れない。やはり悲劇の女王だったと思う。哀愁に満ちたAloha Oeがそれを物語っている。 以上