お姉さんとおばさんを区別する方法の一つは、髪が茶色か黒かだと言われて久しい。もう一つが「1時に来れる?」と言うか「1時に来られる?」と言うかの差であろう。男性も同じだ。
日本語の乱れの典型例として「ら抜き言葉」が挙げられることが多い。「肉眼でも見られる」の代わりに「...見れる」と言い、同様に「食べれる」「来れる」という用語法で、大正時代から出現したが、学校教育で抑制されてきた。しかし最近では若者を中心に半数以上の人が使い、市民権を獲得しつつあるという。日本語の乱れではなく進化形なのだと捉える人も居る。「ら抜き言葉」は今やかな漢字変換でもすんなり変換できる。
ところがよく考えてみると結構奥が深い。「ら抜き言葉」を文法的に定義してみよう。まず助動詞「られる」「れる」がある。同じ意味だが、先行する動詞の活用形によって使い分けられる。「られる」が使われるのは上一段活用動詞「見られる」、下一段活用動詞「食べられる」、サ行変格活用動詞(「来る」という1語のみ)「来られる」のように、未然形に接続して自らは下一段活用をする。「察しられる」「信じられる」「称せられる」のような用法もある。一方「れる」は五段活用動詞「書かれる」、サ行変格活用動詞(「する」とその複合形「愛する」などのみ)「される」のように未然形に連なり下一段活用をする。余談だが、私が昔習った文法では、「書く」はカキククケケの四段活用で、未然形では「書かない」「書こう」と言う、旧仮名遣いで「書かう」が音便で「カコー」と発音されるのでカ(コ)キククケケの五段活用とする説もあると習った。
この二つの助動詞の意味は(1)受身「裸を見られた」、(2)自発「傾向が見られる」、(3)可能「肉眼でも見られる」、(4)尊敬「社長が見られた」と4つある。一見無関係な4つだが、私見では(2)が元来の意味で、平安時代以降「らる」「る」の意味が広がり、それらが現代語に連なっているのではないかと推察している。現代語での使用例の統計では7割が(3)可能の意味だという。そこで(3)可能の意味に使う「られる」だけを独立させ、「ら」を抜いて意味を明確にしたのが「ら抜き言葉」だ。一方(3)可能の意味の「れる」では「書かれる」「眠られる」「愛される」から派生した可能動詞「書ける」「眠れる」「愛せる」が下一段活用動詞として確立しており、既に(3)可能を別建てにする目的は達している。「(書)かれ(る)」→「け」という変化だ。「歩ける」「行ける」なども同様だ。
「愛される」から派生した「愛せる」を正しい日本語とするなら、「見れる」を認めないのは不公平ではないかと、「見れる」容認派はいう。
NHKのアナウンサは「ら抜き言葉」を絶対に使わないように訓練されているが、NHK出演者は自由闊達に使っている。「ら抜き言葉」には上記のような支持理由があり、所詮その優勢は抑え難く、NHKもやがては解禁せざるを得なくなるに違いない。
雅子妃が婚約記者会見で「いい人生だったと振り返れるようにしたいと思います」と言われたそうだ。その後の経緯は後悔がありそうでお気の毒だが、問題はその内容ではなく表現だ。朝日新聞はそのまま掲載したが、読売新聞は「振り返られる」と「ら」を挿入して掲載したという。
読売新聞は、天下の皇太子妃が「ら抜き」ではまずかろうと慮って「ら」を挿入したのだと思うが、これは蛇足だった。「返られる」も「返れる」も両方正しく、使用頻度が高いのは後者だ。まず五段活用動詞の「返る」の未然形「ら」に可能の助動詞「れる」を連ねて「返られる」は正しい。また上記のように「書く」→「書かれる」→「書ける」と変化して可能動詞が生まれ多用されている如く、「返る」→「返られる」→「返れる」という変化もまた古くから認められている。この例では活用語尾がカ行かラ行かの差しかない。ラ行五段活用動詞から生じた可能動詞の他の例を挙げれば、「帰れる」「切れる」「貼れる」「盛れる」「釣れる」などきりがない。これらに抵抗のある人は居ないはずだから、「返れる」もまた広く認められた用語である。「ら抜き」はあくまで上記の定義のように可能の助動詞「られる」の「ら」を抜くことだ。 以上