今日は北大路魯山人の陶器に圧倒された。本当は御開帳の長野善光寺に行ったのだ。数え年で7年に1度、秘仏のご本尊に代わる前立本尊というレプリカを4月-5月だけ御開帳する。それで私共のような善男善女が全国から集まり門前町は大賑わいとなる。ご本尊は武田信玄が甲府に持ち帰って甲州善光寺を建てた。それを織田信長が取り上げ、太閤秀吉が受け継いだが、信玄・信長・秀吉といずれも幸せな大往生が出来なかったのはご本尊の祟りではないかと、北政所が長野に返却して以来誰も見ていない。
八王子の自宅から3.5時間掛けて中央自動車道→長野自動車道にドライブした。多くの車は愚かにも長野ICで下りたが、そこから善光寺までは長い渋滞と知っている私共は、もう一つ北の須坂長野東ICで下り、Webで調べておいたIC近くの駐車場から裏道を上手に抜けるシャトルバスで善光寺大門まで行った。10:30amに到着したのだが案の定既に参道は大混雑で、本堂にお参りするのに50分、前立本尊の近くまで行ける内陣参詣は2.5時間、戒壇巡りと言って真暗闇の床下に入りご本尊真下の極楽の錠に触れるとご本尊と仏縁が結ばれるというコースも2.5時間の、それぞれ長い待ち行列が出来ていた。そこで私共の善男善女ぶりの限界が露呈し、そのどれにも並ばず本堂の隅から遥かに前立本尊を6年ぶりに見て退散した。
善光寺も目的地であったが、実はその隣接地にある信濃美術館、特に併設の東山隗夷館が私の好きな目的地だ。何度も来たが今回の収穫は「緑響く」という題の名画を初めて見たことだ。緑濃い湖畔を白馬が行く。大抵の人は一度ならず何かで見たことのある有名な絵だ。実物を何度も戻って見直し、迷いながら額入りの縮小版を買ってしまった。他では画伯の霧の深山を群青で描き出す技法、波打ち際の水面の泡を描く筆力は見事という他はない。「フム負けた。俺には出来ない」というとワイフが笑った。
信濃美術館本館には北大路魯山人(ろさんじん)の展示があった。と言われても私には正直なところイメージが湧かなかったのだが、ワイフが「美術家で料理の大家、料理修行の私には特別な興味がある。魯山人が始めた料理を幾つか知っている」というので入った。そこで学んだ所によれば、魯山人は明治16年京都の北大路家に生まれてすぐ養子に出され奉公に出るが絵を独学。15歳で懸賞習字で最高賞。22歳で書が日本美術展に入選、書道教授と版下書きで生計。兄の死去により32歳で北大路姓に復帰。金沢で陶芸に接しまた料理を習う。38歳で東京に「美食倶楽部」を発足し蒐集した古陶器に自分の日本料理を盛る。42歳で赤坂に会員制「星岡茶寮」を開設、北鎌倉に星岡窯を築き食器を制作。凝りすぎて商売にならぬと星岡茶寮から解雇されてからは陶芸に専念。昭和34年死去。
魯山人展には書も絵も漆器も多かったが、食器を主とする陶器が大部分で最も迫力があった。「おいしい食物はそれに相応しい食器を欲求する」という言葉を残している。陶器は単一の作風ではなく、備前焼、信楽焼、美濃焼、志野、織部、赤絵、瀬戸などあらゆる手法を網羅してそれぞれの古典に学んだ作品群である。しかし共通の特徴は大胆で迫力ある絵・模様・形にある。武者小路実篤の色紙と一脈通じるものがある。
魯山人は「絵が出来なければ陶器は出来ない」と言ったそうだ。例えば直径30cmほどのクリーム色の大鉢の両面に紅白の椿が描いてある。写実的ではなく、花は赤と白で丸く塗った中央に椿特有の背の高いおしべをヒョイヒョイと描いただけ、葉は中央の葉脈だけを塗り残した緑色のパタンだ。デフォルメされた似顔絵の漫画のように特徴を強調している。絵というより模様かも知れない。昭和15年のこの作品は「椿大鉢」という代表作だ。なまず型の長さ15cmほどの食器もあった。外形がいかにもなまずで、身をくねらせて泳いでいる。絵は白地に青で簡単にしかしなまずの特徴をいかんなく描き出している。絵が無くても絵心が表われている作品もあった。例えば直径15cmほどの竹の2節の間を荒々しく切り欠いた形の花器がそれだ。見るからに陶器で、竹に似せようという意図は全く無いにも拘わらず非常に竹なのだ。絵はないが形全体が絵になっている。
陶器にこのような迫力があり得るのを初めて見て言葉を失った。 以上