ロシアは再び偉大な国になる。初めてのロシアの旅から先程戻った頭でそう考える。偉大な国と思って1960年頃横浜YMCAで露語を勉強したが、大して使う機会も無いうちに苦悩の国になってしまった。しかし怠け者と思っていた露人が実によく働き始めた。いつも不快だったMoscow空港内の土産物店で、呼んでも来ない仏頂面の店員のはずが今回はこぼれる笑顔で客引きをしていた。早朝から公園を清掃する掃除婦は勤勉だった。まだホテルにはティッシューがなく、バスの窓は泥だらけだが、この調子で皆が一生懸命働けば、この大国は必ずや偉大な国になる。
遅れの夏休みで夫婦でロシアを観光した。限られた日程で能率よく観光するためと、正直に言えば第4外国語の露語に自信が無くて、個人旅行を諦め「安価で沢山見せるハードな」阪急交通の29人のツアーに参加した。日本人口の数%の「グループ海外旅行マニア」という元気なお年寄りの顧客層があるようで、世界各国の比較文化論を東北・関東訛で承りつつ8日間の旅行をした。訪問先は9百万の首都Москва=Moskva=英Moscowと近郊の古都、及び5百万の第2の都市Caнкт Пeтеpбypг=Sankt Peterburg=英St. Petersburgだった。ロシア航空はIlyushinにでも乗せられるのかと期待と危惧を持っていたが、往きはAirbus、帰りはBoeingだった。Sankt PeterburgからMoskvaへは寝台特急「赤い矢」号で移動した。果てしない大平原に、国民全ての家族が年間300円で600平方米借りられるという別荘地帯が続いていた。
Sankt PeterburgはПётp=ピョートル大帝がBalt海沿いの沼地に鹿鳴館的発想で築いた西欧的な都市で1712-1918年には首都だった。彼の守護聖人ペテロに因んで命名されたが、後によりロシア的なPeterogradに改名され、共産政権によってLeningradとなったが、自由化でLeninの銅像が打ち壊される中で再びSankt Peterburgとなった。海浜に立ち、日露戦争の時にここから出航してはるばる喜望峰を回って日本まで大遠征し、待ち受けた東郷元帥の日本海軍に壊滅させられたBaltic艦隊の水兵達を哀れと思いつつ、記念に御影石の小石を拾った。市内外にロマノフ王朝の豪華な宮殿が幾つもあり、人民搾取を非難して人心を集めた共産政権成立の背景を見たと思った。第2次大戦でLeningradは65万人の餓死者を出しつつも900日の独軍包囲に耐えたが、宮殿は爆撃で徹底的に破壊され、郊外の離宮は占領された。それを戦後に共産政権が修復復元したというから面白い。その心は観光による外貨収入だった。Ekaterina宮殿では全壁面を琥珀のパネルで覆った琥珀の間を見た。独軍が持ち去った琥珀を懸命に探したが見つからず、諦めて新たに作り直して2年前に公開した。華麗な部屋だが、琥珀を仔細に見ればあまり高価な琥珀は使われていなかった。
Moskva近郊ではSankt Peterburgよりも古いロシア的な建物の古都を3箇所見た。Moskvaは中央にKremlin宮殿がある他は緑の多い近代的な都市だ。ダフ屋から高い切符を買い、団体を離れてBolshoiバレー"Raymonda"を天井桟敷で見た。その時地下鉄で少し遠回りして、大理石の壁にシャンデリアの豪華な地下鉄駅を見学することができた。核戦争の市民シェルタを兼ねて国威をかけて建設したものだ。
「ロシア娘に魅惑されるな」と忠告された。若い女性は滅法カッコ良い。金髪、碧眼、抜ける色白、顔が小さく長身、顔も体も彫りが深い。紀香似の店員の望遠撮影に成功した。中年女性がビール樽風なのとあまりにも対照的だが、出産を境に鑑賞モードから極寒に堪える実用モードに切り替わる。既に肌寒く我々は厚着だったが、例のLow Rise Pantsがここでも流行っていた。長身だから臍下三寸も露出していて日本の歌とは大分違う。バレーは正に彼女達のためにあるとBolshoiで思った。技能も表現力も素晴らしいのだろうが、ただ舞台に立っただけでも美しい。
機内でみたMoscow Timesによれば、世界の経営者が投資したい国のランクでロシアは17位から8位に大躍進し、3位から7位に転落した英国に次いだ。因みに1位は中国、2位は米国で、日本は10位以内には居なかった。Leninは偉大だが結局人の怠け心に誤算があったんだなあ。 以上