今年の入選流行語の一つに「真珠夫人」というのがあり、白状すれば何のことだか私には分からなかった。流行語が分からぬとは何と怪しからぬことであるか。分からぬ時のWeb頼みで、早速調べて見た。
菊池寛が大正年間に「真珠夫人」という新聞連載小説を書いたのだそうだ。それさえ知らなかったのだからお恥ずかしい次第だ。大正9年に新潮社が出版し、昭和15年に新潮文庫に収録された。それを脚本家中島丈博の脚色で東海テレビが昼ドラとして制作し、今年4月から3ヶ月にわたって全国放送したのが大人気となり、新潮社は改めて今年8月に新潮文庫で出版し、11月には早くも第4版を出した。ドラマのDVDも発売されている。この昼ドラ人気が流行語入選を実現した。早速新潮社文庫を読んでみた。
さすが菊池寛の小説は面白い。瞬く間に上下2巻を読破してしまった。真珠夫人とは、真珠の如く高貴で謎めいた輝きを持つ美しいヒロイン瑠璃子のことだ。昼ドラでは、瑠璃子は娼館のマダムとして、かって将来を誓い合った恋人直也への貞操を守り通す健気で純な女性として描かれているそうだ。また大正年間ではいかにも時代ギャップが大きいからと、終戦後の昭和20-30年代に時代を再設定したそうだ。なるほど、昼ドラの視聴率を稼ぐにはそれが正解だが、原作の瑠璃子像とは大きく異なる。テレビドラマが嫌いな私はこのドラマを見ておらず、DVDを買う気も無い。
原作では、まだ丹那トンネル(昭和9年完工)がなく東海道本線は御殿場をまわったので、国府津から軽便鉄道で行く小田原・熱海や、開通間もない箱根登山鉄道で上る強羅が出てくる。日本は今のような平等社会ではなく、貴族などの上流特権階級が幅を利かせ、米国顔負けの自由経済と貧富の差があった。男女平等には程遠く女性にのみ姦通罪があった。
女性が男性に隷属していた時代だったからこそ、菊池寛は男性に挑む女性瑠璃子を描き、女性読者は叶わぬ夢を支持したのであろう。瑠璃子は男爵令嬢で神々しいほどの美女で、流暢な仏語を操るインテリだ。子爵の御曹司直也と結婚して外交官夫人になるはずだったが、直也がふとしたことから油ぎった成金荘田の怨念を買い、荘田は金力で瑠璃子を直也から引き離し娶ることで復讐する。一方瑠璃子は女の魅力で荘田に復讐することを誓い見事本懐を遂げる。荘田未亡人となった瑠璃子の魅力に惹かれる上流階級の男性群が、荘田家をサロンのようにして集う。彼らは一人一人を惹きつける瑠璃子の手練手管に惑わされてサロンに通いつめ、しかし夢破れて破滅する。その破滅は遂に瑠璃子自身にまで及ぶ。
瑠璃子は「自分は女を慰み者としか考えない男の犠牲者だ。そういう男性達を弄んで復讐する」と言う。良くぞ言ってくれたと歓喜する女性が当時は無数に居たはずだ。昼ドラと違って昔の恋人直也は、瑠璃子の人生は結局何だったのかという総括のために再登場するだけで、瑠璃子は彼に操を立てたとも見えない。むしろ自ら思うが侭に生きた人生に見える。私には大変興味深い女性像だが、これでは昼ドラの視聴率は稼げない。
心にもない媚を売る女性という意味で瑠璃子は、夏目漱石が明治41年に朝日新聞に連載した小説「三四郎」の里見美禰子(みねこ)に酷似している。漱石はUH=Unconscious Hypocriteを描くのだと宣言して美禰子を描いた。熊本から上京したばかりの小川三四郎は都会派の魅力的なインテリ女性の美禰子にすっかり翻弄されてしまう。いつも気を引くのは美禰子で、三四郎の心が動くと次には突き放される。直訳すればUHは「無意識の偽善者」だが、私は「無意識の撹乱者」と意訳したい。Hypo=「下」がCri=「離反」していて、心にも無い媚を無意識に売るから三四郎は撹乱される。無意識なら若干可愛いし、復讐だと怖いが、「罪の意識なく」という点では共通だ。媚を売る対象が単数か複数かは本質的ではない。
私は自分の体験も含めて、瑠璃子と美禰子を「モテたい症候群」と定義する。誰でもモテる快感を欲する気持ちはある。しかしモテたいために心にも無い媚を売ることに罪を感じて、或る常識的な線で平衡する。私のユニークな仮説は、愛情に飢えて育った人、飢えている人はこの平衡点が高く、従って「モテたい症候群」に陥り易い、というのだが如何? 以上