聖徳太子は後の世の捏造で、実在しなかったという本を読んだ。
「聖徳太子の真実 大山誠一編 平凡社 2003/11 pp446」
11人の学者による真面目な学術書だ。著者達も、聖徳太子の実名の厩戸(うまやど)王の実在は認めている。法隆寺が建つ前の同位置に斑鳩(いかるが)寺を創建したのは彼かも知れないとしている。しかし十七条憲法や四天王寺は後世のでっち上げだと言う。奇をてらう気はなく、極めて真面目に聖徳太子にまつわる後の世の創作を1枚1枚剥ぎ取って行き、聖徳太子の歴史学的実像を描き出そうとしたら、玉葱のように全部剥げ、後に残ったのはあまりパッとしない厩戸王だけだったという。
厩戸王は西暦574年に生まれ、621年または622年に没している。712年に完成した古事記には厩戸王の簡単な記述があるだけで、720年完成の日本書紀に聖徳太子の名と偉業が初めて詳述されている。奈良時代の前は飛鳥時代で、飛鳥に都があったと我々は習った。そこに588年に飛鳥寺を建て仏教文化を築いた強大な実力者は蘇我馬子で、聖徳太子(厩戸王)と連合して物部氏を滅ぼした。聖徳太子が住んだ斑鳩から飛鳥まで20kmある。マイカーで通勤する距離だ。聖徳太子は馬で通ったとされている。雨の日も雪の日もあっただろうにと、不自然さを論う学者も居る。
本書の著者達は、蘇我馬子こそが実は(後に天皇と呼ばれる)大王だったのではないかと考えている。後の平氏と同様に蘇我氏も婚姻によって天皇家に深く食い込んでいたので、蘇我馬子は欽明大王の義理の弟に当たる。父子相続が未確立の時代だから、実力次第でこういう継承も可能だったという。その証拠に、蘇我一族だけが古墳を連ねた飛鳥の地に、欽明大王だけは態々改葬によって葬られている。蘇我一族の彼を始祖として蘇我王朝があることを世の中に知らしめたのであろうとする。
日本書紀がそもそも実話と虚構がないまぜになったものであることは良く知られている。645年の大化の改新に始まり、日本の国家体制は徐々に整備されてきたが、遣隋使が途絶えてから40年ぶりに702年に派遣された遣唐使が唐の華麗な都と皇帝の絶対権力に驚き、日本も唐に学んで急速に国家体制を整備しないと唐から馬鹿にされ、高句麗のように属国にされると危機感を抱いたという。その時期が丁度日本書紀の完成時期と重なる。中国風の父系継承万世一系の天皇制を主張して、依然万全ではなかった天皇制を正当化することが、後世に歴史的事実を述べ伝えるよりも遥かに重要な日本書紀の目的だった訳だ。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)=天智天皇が、天皇家の権威回復に努め、その弟天武天皇が672年の壬申の乱に勝って初めて天皇家の権威が確立し、万世一系が実現した。それまでは蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿の3代が蘇我王朝の権勢を振るった。しかしそれでは困るから日本書紀は、実際には大王だった蘇我馬子を大臣とし、架空の大王として用明、崇峻、推古を描いて埋め合わせしたと著者達は推察する。しかし1世紀前の蘇我馬子の飛鳥の都の建設や飛鳥寺創建など仏教への貢献は歴史から消し去れないから、蘇我馬子と近かった厩戸王を聖徳太子の名で売り出し彼の業績にしたという。それが法隆寺の場で光明皇后の仏教信仰によって増幅され奈良時代に神格化された。法隆寺の釈迦三尊は、光背の銘文によって、聖徳太子の死後王后、王子、諸臣が聖徳太子に似せて623年に完成したとされているが、1990-91年の解体修理で台座墨書銘が発見され、用語などから律令制度成立以降、681年であると判明した。
604年に聖徳太子が制定したという十七条憲法には、当時無かった「国司」という言葉があるので、早くとも646年の大化の改新以降、恐らくは日本書紀と同時期に書かれたものと推定されている。9-10世紀に天台宗は聖徳太子を観音菩薩の化身とし救世観音を信仰した。大阪の四天王寺はこの時期に救世観音信仰で大いに寺勢を盛んにした。1007年に突如寺の金堂で発見された聖徳太子筆とされる四天王寺創建を伝える「四天王寺縁起」は、聖徳太子の名で後の世に書かれたことが証明されている。
一万円札も福沢諭吉になって良かったのかも知れない。 以上