毎年のように今年も神代桜を見に行った。山梨県北杜市武川町の実相寺にある日本一古い桜の木だ。日本武尊が植えて樹齢2000年と言われるが、私は800年という説を信じている。明治年間には見上げる大木だった証拠写真を持っているが、主幹が折れて根元から伸びた枝に花を付けている。日本の桜の三大古樹は、古い順に神代桜、岐阜県本巣市の淡墨桜(公称1500年)、福島県三春町の滝桜(公称1000年)だと私は信じているが、樹勢はその逆順だ。しかし見るからにご老体の神代桜は、古樹にも拘わらず花は若々しいことがいつも感動的である。神代桜のプロの油絵を購入したが、絵として美しいことと私の記憶の中の思い入れの姿に齟齬があり、自分で油絵を描いて横に並べて掲げてある。美しさでは敵わないが、若い生命力を漂わせる老木の迫力では勝っているとは勿論贔屓目の話だ。
神代桜が今年は早目に咲いたことをWebで知り、4月3日小雨の中を長坂ICに急いだ。雨のおかげで観光客が少なく楽に駐車出来た。神代桜は満開で、今年も元気を貰えた。境内には桜の名木の子桜が幾つもあり、既に数十年の大木に育った木もある。神代桜の子桜もかなり大きくなり元気だ。淡墨桜、滝桜、身延山久遠寺の枝垂桜などの子桜も、いずれも満開だった。あまり剪定しないから滝桜の子桜は、通路を塞ぐように垂れ下がったのを枠を組んで持ち上げている。実に見事で三春を彷彿とさせる。
4月5日には文京区の小石川植物園の花見の会に行った。桜の季節が早い今年は染井吉野は9割がた花が散っていたが、遅咲きの各種の里桜=園芸種は満開で見事だった。花弁が風に舞う景色や、花弁が敷き詰められた通路が美しかった。敷地の北端にカリン林があり、リンゴに似た形のピンクの可愛い花が無数に咲いていた。各種の椿の花、赤紫が鮮やかな三つ葉ツツジ、カイドウ、木々の若葉が美しい季節だった。
その足で久し振りに都立六義園に入った。時代劇によく出て来る川越藩主柳沢吉保が1702年に築園した大名庭園だ。是非ここを見たいとなぜか切望した外人を連れて来てからもう数年間来ていない。正門近くの有名な枝垂桜の大木は既に葉桜だったが、遅咲きの桜がまだあちこちに咲いていた。元々平らな土地に広大な池を掘り、その土を積み上げて35mの丘を初め築山を幾つか作り回遊式築山泉水の庭園としている。明治時代に三菱の岩崎弥太郎の別邸となり、昭和13年に東京市に寄付されたという。
都会のど真ん中だが深山幽谷の趣がある。なぜか和歌山の景色に想を得てその地形と地名を踏襲している。和歌山を題材とする昔の和歌が、相当する場所に掲げられている。明治時代に建てられた「つつじ茶屋」は、くねくね曲がったつつじの大木を何本も柱に使った珍しい休憩所だ。蓬莱島は池の中にあるアーチ型の岩で眺めに趣を添えている。岩の上に多数の亀が甲羅干しをしていた。水と緑豊かな都会のオアシスだ。
北に1km弱歩いて、これも都立の旧古河庭園を初めて訪れた。椿山荘と同様に本郷台地と低地との勾配を利用した大滝がある。明治の元勲陸奥宗光の邸宅だったが、宗光の次男が邸宅ごと古河財閥の養子となった。大正年間初期に全面改装され、煉瓦造り石張りの洋館と周囲のバラ園を中心とした西洋庭園は、日本に建築学を教えた英建築家Josiah Conder=コンドルが作り、洋館からは見えないように設計された低地の心字池中心の広い日本庭園は京都の庭師小川治兵衛の作だという。後者には巨大な石灯籠が数基配置されていて見応えがある。苦労して収集したに違いない。
大正年間洋館には古河家の夫婦と息子1人が住み、桜の大木で隠れた別館に使用人20-30人が寝起きしたそうだ。終戦後英海軍に接収され、そこら中に白ペンキを塗りたくられたとか。東京都に寄付されてから、元来の洗練された内装が復元されている。1階には応接用の洋式の各部屋がある。大小の食堂やビリヤード室などで、今は結婚式やコンサートに貸し出されている。2階の廊下までは洋式だが、ドアを開けると板の間の先が襖になっていて、贅を尽くした和室が連なる。居間、応接室、子供部屋、寝室などが見学できる。上流階級の暮らしの一端を見た。
5日は名残の桜と若葉の季節を満喫した盛春の1日となった。 以上