平安時代から連綿と毎年古式豊かに続く七夕祭を夫婦で見学した。場所は京都御所の西北端の公家屋敷冷泉家だ。近年は冷泉家時雨亭文庫という財団法人になっている。冷泉家は藤原定家を先祖とし、25代800年続く和歌の家柄で、和歌を初め平安の古典と古式を頑なに受け継ぐ使命を自らに課している。東京遷都で多くの公家が東京に移転したが、冷泉家は京都に踏み留まったお陰で関東大震災も戦災も逃れ、使命を継続できている。
当主の奥方冷泉貴実子氏の解説で6pmから催しが始まった。七夕祭を乞巧奠(きっこうてん)という。旧暦7月7日に行うべき所今年は旧盆(新暦+1か月)と重なったため、一週間ずらして8月21日に行われた。襖を取り外した5部屋で80畳の大広間を用意し、百余名の文庫後援会員を受け入れた。京都市長も参加した。庭には「星の座」という祭壇が設えられ、伝統格式の供物が供えられる。「角盥(つのたらい)」という盥に水を張り、梶の葉を浮かべ、牽牛織女の二星(じせい)を映して愛でる。
最初に雅楽が4曲演奏された。横笛、縦笛、笙、身長ほどの和琴、琵琶の5人編成だ。女性1名を含めて全員烏帽子で胡坐をかいて演奏する。雅楽というと「日本古来の」という印象が強い。それは正しいが、元々は唐など中国から伝来した音楽だと教わった。西洋音楽がシャープな音階を追求するのに対して、幅広い包容力のある音だ。1曲だけ朗詠曲(声楽)があった。2名で歌ったが雅楽には和音という概念が無いようで斉唱だ。「二星」というこの曲と歌詞は、朗詠雅楽の定番とのこと。
次に「披講(ひこう)」が行われた。和歌(短歌)の朗詠だ。会場の電灯が消され燈明だけになった。いや実は現代人の視力を補うために、燈明周辺を照らすスポットライトだけは残った。幼い頃神棚や仏壇に上がっていた燈明を久し振りに見た。菜種油を満たした皿に芯を浸したものだ。25代当主冷泉為人氏が偶々女性ばかりの5人を引き連れて燈明の周りに座る。「読師」を務める為人氏が予め和歌を書き付けた和紙を1枚ずつ提示し、「講師」がそれを大声で平板に読み上げ、「発声」がその第1節を節をついけて詠い、第2節以降は全員で詠う。「七夕(しっせき)の庭」という題で予め選ばれた和歌9首が次々に披露された。因みに為人氏の歌は「あかつきの庭に降り来る白露は 別れを惜しむ星の涙か」であった。
「庭」は「ニハ」、「会ふ」を「アフ」と旧仮名遣い通りに読み上げ詠う。本来「小さき=ちひさき」を平安時代には「ティフィサキ」と発音した。「山へ」の「へ」は時代を追ってペ(万葉)→フェ(奈良)→ウェ(鎌倉)→エ(江戸)と変化した。「花」はパナ→ファナ→ハナ(江戸)、「庭」はニパ→ニファ→ニワ(鎌倉)となった。平安時代に仮名が発明された時「ファ行」の発音を「は行」の文字で表した。その一部が鎌倉時代にワ行の、残りが江戸時代に「ハ行」の発音となった。今「庭」を「ニハ」と読むのは歴史的に見えて実は歴史上無かった発音だ。
最後は「流れの座」だった。男女5組が向かい合って着座する。男性は烏帽子に狩衣(?)、女性は裾を引く薄衣の上に束ねた長い髪を垂らす。1組が立って奥から和歌の題を籤にした盆を持って来て座に置き、全員がそれを引いてそれぞれ和歌を作る。また1組が立って人数分の硯箱を持って来て配布する。次に和歌を書き付ける和紙を持って来て配る。男女の間に白く光る絹の布が広げられ天の川を象徴する。全員が墨をすり、折り畳んだ和紙に書き付ける。書き上がった組から紙を扇に乗せて男女で交換し、それぞれ返歌を書き加えて再び扇で返す。以上を全て無言で行う。やり取りした歌は2人の秘め事のまま、昔は無限に返歌の交換を続けて夜明けまで楽しんだというが、今は1回の交換で終わり、司会者が2組4人の和歌8首を読み上げて見学者に披露した。これで2時間の催しは終わった。
なお七夕に願い事の短冊を笹に結ぶ風習は江戸時代からで、冷泉家は採らない。乞巧奠は元来女性がお針の上達を願う中国の儀式だったが、日本に渡来して雅楽・和歌などの技の上達を祈る儀式になったとか。
現代のスピードに慣れた我々には若干じれったい面もあったが、暇を持て余したに違いない平安貴族の雅の一端を感じることが出来た。 以上