分厚い文庫本で、@東條英機の人物像、Aなぜ日本は愚かな開戦をしたのか、を学んだ。東條は教条的なルール至上主義で、Leader型ではなかったようだ。私の知る大企業では部長以上には決してなれない人だった。
東條英機と天皇の時代 保坂正康 筑摩文庫 元々は1979 pp699
東条英機は、陸軍幼年学校・陸軍士官学校・陸軍大学と進み、熱心かつ偏狭な性格から一部から大変信頼され、他から嫌悪される将校になった。Siberia侵略を目論む陸軍強硬派との政争に敗れた東條は、陸軍省の要職から久留米の旅団長(1934)に、更に満州国(1932-45)を牛耳る関東軍の憲兵隊司令官(1935)に飛ばされた。しかし2・26事件(1936)を起こした強硬派は追われ、東條中将は関東軍参謀長となった。参謀長は作戦立案だけで良かったのだが、東條は「東條兵団」を編成して先頭に立ち、北中国侵略に自ら歴戦し戦績を上げたので、陸軍の期待を背負い、第1次近衛内閣の陸軍次官(副大臣。1938)、第2次近衛内閣の陸軍大臣(1940)になった。
真珠湾攻撃(1941/12/8)直前の日本は、中国撤兵を迫る米国との妥協を探る天皇、近衛首相、外務省、勝てるはずがないとの本音が言えない海軍に対して、東條を含む陸軍は米国との妥協は無理と、1941年10月16日に日限を切って対米開戦を準備した。指導層の意見はバラバラで、対立を避けて決議文の推敲のみに時間を費やした。天皇と近衛首相の力不足だ。
遅すぎた最後に、対米協調派は妙案を実行した。東條を大将に昇格させて首相(1941/10/18)とし、天皇から東條に開戦回避の指示を出した。天皇を絶対視する東條は首相・陸軍大臣・内務大臣を兼任して軋轢を抑える体制を整え、戦争回避の立案を進めた。甲論乙駁を経て対米交渉条件が決まり、11月2日に東條はそれを天皇にご報告した。天皇のご意思と異なり「12月1日までに交渉が纏まらない場合は開戦」と条件を付けなければ陸軍の同意が得られなかったことを、男泣きして詫びたという。11月5日の御前会議でこの条件案が正式決定され、米国との交渉が始まり、米国内部では一時期6か月の凍結案も生まれたが、中国蒋介石総統は日米の妥協を惧れ、英国Churchill首相は中国の脱落と米国の不参戦を惧れた。結局米国 Hull国務長官は11月26日に、日本に一切の妥協をしない Hull Noteを突き付けて日本の第1撃を誘い、厭戦の米世論を参戦に転換する戦略を選択した。これは開戦を決意した日本陸軍には願っても無い展開だった。
開戦の方針は12月1日の御前会議で正式決定された。8日の開戦直前の2日間、東條は首相官邸の部屋に籠り、夜中に男泣きが洩れたと娘さんが証言している。緒戦の大勝利で東條は大英雄として称えられたが、1942年のMidway海戦で大敗戦を喫し、島々が玉砕して行くと、1944年夏には東條の政治手法への反発が高まり、降板や暗殺まで計画されるようになった。岸信介商工大臣ですら、東條首相では国難を乗り切れないから、新たな首班で挙国一致内閣が必要と考えた。終戦内閣が必要と考える人も多かった。1944年7月に東條は退陣したが、小磯内閣・鈴木貫太郎内閣は何も出来なかった。1945年5月には独が無条件降伏した。8月9日の御前会議でPotzdam宣言の受託が決まり、15日に天皇の詔勅がラジオで流された。
東条はピストル自殺に失敗して極東軍事裁判に掛けられ、天皇に累が及ばぬよう全責任を負い、悔悟師の導きで仏教の悟りの中で刑死した。
愚見では、東条英機を、愚かな大戦に導いた大悪人と言うのは間違いだ。そんなLeadershipの人ではなかった。大戦を望んだのは井の中の蛙だった陸軍だった。それにマスコミと扇動された国民だ。「米英撃つべし」と熱狂した国民と、今原爆反対のデモをする国民は同じだ。米英が印度・比島・Hawaii等を植民地化したように、日本は一周遅れて満州を植民地化した。抗日運動の元凶の蒋介石政府を壊滅しようと深みに嵌った。もし当時の中国がソ連程度に強かったら侵略出来なかった。東南アジア程度に弱かったら数か月で中国を満州化して、米国は手出し出来なかった。中国侵略を止める首相は暗殺されただろう。唯一止められたかも知れないのは天皇だが、それでも国民の熱狂的支持を得た反乱軍が内戦を起こしただろう。そういう時期に偶々首相に担がれたのが東條英機の不運だった。以上