「トヨタテクノパーク産業技術記念館」を初めて見学した。名鉄名古屋駅の北隣の名鉄栄生(さこう←さかう?)駅の近くにある。一帯は則武(のりたけ)新町と呼ばれる。愛知郡鷹場(たかば)村大字則武だったこの地で、1904年に日本陶器合名会社が近代陶業を始め、現在のノリタケカンパニーとなった。ノリタケの古い工場は2001年開場の「ノリタケの森」という陶芸の技術展示、製造工程、即売店などが展開される産業公園になっている。それにほとんど隣接するように1994年開場のトヨタの記念館があり、繊維機械と自動車に関する産業公園として整備されている。
トヨタ自動車鰍ェ竃L田自動織機製作所の社内新規事業として生まれたことは良く知られているが、その源流は発明王豊田(とよだ)佐吉(1867-1930)が自ら発明した動力織機の販売のために1895年に設立した豊田商店にある。機械の販売から機械で布を織り、次に糸を紡ぐことを始め、最初の株式会社である豊田紡織鰍ェ1918年に設立された。そこから1926年に機械製作を社業とする上記の竃L田自動織機製作所が生まれた。記念館の土地は1911年に豊田佐吉が購入したもので、赤レンガの古めかしい建物は1919年建設の豊田紡績の工場施設であった。1994年までは鋸型の古い工場棟が並んでいた一部を、歴史的建造物として保存している。
記念館は繊維機械館、自動車館、メカで子供達が遊べるテクノランドに分かれている。私は4時間コースの地図を手に2時間で回った。学校からの団体客を含めて、大人と子供の入場者は半々とのこと。
繊維機械館では、綿の紡糸と織布の昔の手作業から全自動機までが実働状態で展示されており、制服のコンパニオンの他に退職者と見える数人の技能者が機械を作動させながら説明していた。私が真っ先に不思議に思ったのは自動紡糸だった。糸になってしまえば後の加工はどうにかなるのは判るが、絹とは違って数cmの繊維がゴチャゴチャしている綿花から、名人の手作業ならともかく機械が均一な糸を引き出すのは至難の技と思われたからだ。糸の太さを測定して閉ループ自動制御するなどは全くない。嚆矢は1873年に信濃の発明家が作った「ガラ紡機」だそうだ。直径4cmほど、長さ20cmほどの金属筒に繊維の向きを縦方向に揃えた綿花を詰め、筒を回転させながら上から糸を引き上げる。糸が太くなってしまうと引き上げる力が強くなり、筒は浮き上がってラッチが外れ回転が止まり、綿花を周囲から巻き込まなくなるから細くなるという原理だ。
戦後の「糸扁(いとへん)景気」で日本で製糸業が花開いた頃の機械も見た。綿花を直径5cmほどの(撚りのない)太い縄状にまとめ、引っ張って1cmくらいにし、更に紐にし最終的に糸にするという機械群だった。微妙な調整が必要な機械だと見たので技能者に「綿花が変わると駄目でしょう?」と言ったら、「毎日均一な綿花が供給できるように綿花をブレンドし調整するのも技能のうち」と答えた。今でも日本で紡糸をしているのは特殊な糸だけで、普通の糸は全て中国から輸入しているそうだ。
自動車館はコンパニオンが説明に当たっていた。豊田佐吉が発明したG型織機の特許が英国に売れて、現在価値で10億円ほどの資金を手にした佐吉は、東大機械工学科を出て働いていた長男の豊田喜一郎(1894-1952)にその資金を渡し「俺は織機で国に貢献した。お前はこの金で自動車を作り国に尽くせ」と言ったそうだ。見学順路は材料と測定器の棟から試作棟に入り、木枠で作った車体に合うように鉄板をハンマで叩き出して溶接した1935年の最初の試作機の製造過程の展示があった。最初の乗用車の商品AA型の復元モデルをコンパニオンが説明してくれた。前部座席は狭いが、後部座席は今の車よりはるかに豪華と見えた。日産とともに1936年9月に商工大臣から発行された自動車製造事業の許可証と、AA型を売り出した東京丸の内の発表会の展示もあった。この時に初めてトヨダがトヨタに改称された。私はこの半年前に生まれた。アレッこの車と同い年だと言ったらコンパニオンが首を傾げた。当初の車種からPriusに至る自動車各部の仕組みの説明から、製造工程が判り易く説明されている。巨大なプレス機や溶接機を模擬操作させてくれる。一度見学して損の無い記念館だ。 以上