Florida州南端の島Key WestでHarry Truman大統領が避寒に使った記念館を先年訪れた。Missouri州の民主党上院議員からFranklin Roosevelt大統領の4選目の副大統領となり、82日目の1945年4月12日にRoosevelt大統領の脳卒中急死で大統領に就任した。小児麻痺で下半身不随ながら偉大な大統領とされたRooseveltを継いだTruman大統領は、大学を卒業していない最後の大統領でもあり、小物イメージがつきまとった。大統領就任4年後の初の選挙では、共和党候補に負けると皆が予測し負けたと号外を出した新聞もあったほどの接戦に辛くも勝利した。しかしその4年後の第2選では、予備選挙の展望が芳しくなく辞退し、結局共和党のEisenhower将軍が勝利した。なお大統領の3選禁止の憲法改正はTruman時代に行われた。
このTruman大統領が小物イメージを払拭しようとした背伸びが、広島・長崎の原爆投下に大きく関わっていたとする本を読んだ。
原爆を投下するまで日本を降伏させるな 鳥居民 草思社 2005
原爆開発を大統領になって初めて知ったTrumanが、それを実験場ではなく日本の都市に投下することで威力を世界に示し、既に進んでいた米ソ冷戦を有利に運び、偉大な大統領として尊敬されたいという意識があったと筆者はいう。原爆が実戦で使用可能となる8月初めまでは日本を絶対に降伏させないために様々な手を打ったという。事実証明型のNon Fictionではなく、FictionとNon Fictionがない交ぜになった本で、米国側の原爆投下決定に関しては文献がないため推察したとしている。しかし状況証拠から見て筆者の主張は正しい可能性が高いと私は信じてしまった。
第2次大戦で敗色濃い日本は、1946年4月まで有効な日ソ中立条約を頼りにソ連に終戦を斡旋してもらう努力をしたが、欧州では独の侵略をはね返し1945年2月のYalta会談で対日開戦を米英に密約したソ連は言を左右にするばかりだった。広島の原爆投下で日本の降伏が早まると見たソ連は慌てて1945年8月9日に、条約に違反して日本に開戦した。日本降伏の15日まで1週間参戦して樺太・千島列島・北方領土を領有し、私の小中学校恩師を含む多数の日本兵をSiberiaでの強制労働に送った。朝鮮から引揚中に小学生だった友人一行はソ連兵に囲まれ、姉は地中に隠して無事だったが10名の若い女性が目の前で連れ去られたお蔭で一行は解放されたと。
1945年5月8日に独が降伏すると、ソ連はPoland領土の1/3をソ連に編入し代わりに同程度の領土を独から取り上げてPolandに与えた。Balt 3国・中欧からRomaniaに至る近隣諸国に何れも共産党政権を擁立してソ連の勢力圏に置こうとした。こうしたソ連勢力拡大の既成事実化を恐れた英Churchill首相は、米英ソの三国会談の早期開催をTruman大統領に強く迫ったが、原爆実証後の方が有利と愚かにも思い込んでいたTruman大統領とByrnes国務長官はそれを遅らせ、やっと7月17日に独旧都Potsdamで三国会談を開いた。会議中に原爆実験成功の情報を得たTruman大統領はStalinにそれを伝えた。驚くかと思いきや反応は無かった。スパイ情報を得ていたからだという説もあるが、ピンと来なかったに違いないと思った大統領は益々日本への投下を重視した。Potsdam宣言は、それだけで日本が降伏してしまわないように幾つかの工夫が凝らされた。(1)日本が頼りにするソ連に署名させず代わりに出席してもいない中華民国を入れた。(2)原案にあった天皇制維持を削った。(3)降伏を促す文も最後通告という文も入れなかった。(4)国務省担当の外交文書ではなく戦時広報担当から流した。Truman大統領の狙い通り日本はPotsdam宣言だけでは降伏しなかった。
計画通り8月6日に広島に、9日には第1目標の小倉が曇っていたため長崎に、原爆を投下した。直後に日本はPotsdam宣言を受諾した。全てTruman大統領の計画通りに運んだが、結局原爆はStalinや毛沢東を威嚇することは出来ず、原爆の独占も長続きせず、東欧中欧と中国の共産化を止められなかったのだから、Truman大統領の作戦は完全に失敗だったことになる。被災した広島・長崎こそ大災難だ。東洋人に対する人種差別的傾向があったといわれるTruman大統領の価値判断と外交判断の誤りは強く指弾されねばなるまい。偉大な大統領になり損なったことは間違いない。 以上