遥か昔1962-3年に私は米Illinois大(州立)で学んだ。当時はまだ会社に留学制度はなく、金は無かったが、あっても日銀が国益と認めぬ限りドルは買えなかった。会社に嘆願書を出してやっと1年間のお暇を頂いた。その嘆願書を上層部に通してくれた偉い人から「1年で返って来い」と厳命され、無理して修士を取り、365日目に帰国した。休暇中の米電算機メーカへの見学旅行費は会社が出してくれたが、不公平感を持った人事課長に領収書金額から大幅に削られた。実はメーカ以外も当然「ついでに見学」したから仕方ない。給料15か月相当の片道渡航費は米Fulbright奨学金で賄い、学費・生活費は有償助手として稼いだ。会社よりも米国に大変恩義があるので、一生をかけて今もって恩返しをしているつもりだ。
中央公論3月号で、東大副学長吉見俊哉教授の寄稿を読んだ。最近米Harvard大で社会学の授業をされた経験から、日米の大学、特に東大とHarvardの対比をされる。今才能と資金に恵まれた少数の高卒生は、東大に4月に入学するのと並行してHarvardなど米一流校への応募(入試は無く書類審査主体)を進め、受かると9月から米大に行ってしまうそうだ。国内での評価は、東大入学と東大卒業とはほぼ同等(つまり入学さえすれば卒業させてくれる)。海外では米一流校卒の方が高評価となれば、金さえあれば合理的な選択だ。米大では、成績が悪いと即座に放校だが、米大の方がずっと学生の面倒見が良くて、勉強させられ、実力が付くという。
教授によれば、Harvardの先生は後述の理由で東大の先生よりヒマで、東大ではHarvardほど学生の面倒を見る余裕が無いという。これには私は驚いた。私の半世紀以上前のたった1年の留学経験では、学生の面倒見の良さに差があるとは感じなかったからだ。尤も現地に来ておられた日本人教授には大変お世話になったが、これは別の話だろう。吉見教授も、日本の大学の改革が一向に進まぬ一方、米国の大学はここ数十年で様変わりに変化したのだと言われるから、話は合う。
吉見教授によれば、日本の大学は教授が個々に頑張り自由を謳歌する個人商店街であるのに対して、米国の大学は研究と教育という目的に最適化した大企業の如き組織体だという。手順が標準化されていて、教授は教科の分厚い教育計画を作成して学生を誘う。有償の教育助手=TA=Teaching Assistantが、その作成を主導し、毎授業の1時間前に学生の理解度を中心に授業の進め方を教授と打合せ、教授抜きのTAと学生だけの補修授業を持つ。日本では教授会が全て決定するが、米国では大学職員が決定権を持つ専門職で、教育内容以外のことは職員が片付ける。教授もTAもそれぞれ、学生と質疑応答や将来計画の相談に応じるOffice Hourと称する時間を公表し、学生は教授やTAの時間を占有する「権利」を持つ。教授は研究と教育だけ考えればいいので、学生の面倒を見る時間がとれるという。
新制大学の制度設計がまずかったと教授は言われる。旧制高校3年が一般教養を教え、旧制大学3年が専門分野を極めた。新制大学の4年間に、米国流に一般教養を取り入れたが時間不足、大学後半の専門教育も時間切れで、先生も学生も(サボらぬ限り)多忙になってしまったと言われる。
日本の大学では週1度の授業で2単位が多いが、米国では4単位の授業が多く、週2回とTAの授業が1回あって、密度が濃いという。日本の大学の履修科目数を半減せよと教授は言われる。まず4単位授業を導入しようと。
待てよ、と私は感じた。米留学中の私は電子の電荷量や質量まで自然に覚えてしまった。そのくらい宿題が出た。だが今は覚えていない。日本では電気・物理・数学のあらゆることを超高速の講義が取上げ、理解が大変だった。その多くを今は忘れている。しかしこの場合はFourier変換だとか、自宅の暖房効果を計算するには抵抗と電流の回路網だとか、無数の引き出しを得た。必要な時に勉強し直せば使える。私が博士論文を目指した回路理論の独自構築では、行列・ベクトルを使えば整理できることに気付き、線形代数を勉強し直した。日本の大学の「浅く広く」は「自習できる人」を育てる目的だったと思う。米国の大学の「狭く深く」は「急速に専門家を育てる」のに有効だ。どちらを目的にするかではないか。 以上