秩父の山で和銅の歴史に触れて来た。実は秩父三十四観音巡りを志した。信仰心は不充分だが秩父市に集中する秩父三十四観音はOrienteeringに最適と睨んだ。その案内情報を見るうちに秩父の和銅が気になり、結果的に午前を和銅、午後を観音巡りに費やした。一度も腰を下ろすことなく6.5時間歩き通し、午後には札所1番から5番を巡った(その後23番まで)。
高校の日本史では、武蔵の国秩父郡で銅が発見され、喜んだ朝廷は708年に年号を和銅元年と改め、同年中に日本初の銅銭「和同開珎」を発行したと習った。ただ後述のように、近年の研究では少々違うようだ。
西武池袋線の終点の西武秩父駅まで八高線経由で八王子駅から1.5-2時間と、意外に近い。休日には快速急行が秩父鉄道に直通運転されていて、和銅黒谷駅で下車した。黒谷(くろや)という谷の地名の駅だったが、観光振興のために和銅を冠した。観光予算が付いているようで、道標と道の整備はしっかりしているが、蜘蛛の巣を払いながらの山道だった。
山の頂上の銅色のチャートの大岩に「和銅」と大書された2文字が麓から見えると案内情報にあったが見付からなかった。後刻地元の人に尋ねて、木々に半ば埋もれた文字をやっと見付けた。山裾に堂々たる聖(ひじり)神社がある。案内板によれば、和銅発見を喜んだ朝廷が役人を派遣して創建し、百名の官吏に代えて百足の銅製のムカデ1対が下されたという。社宝の和銅も見たかったが資料館も社務所も施錠されていた。
銅洗堀=銅洗沢=和銅沢という谷川に沿った山道と、並行して1車線の舗装道路が上っている。十数分登った山道の終点に巨大な和同開珎を載せた5mの記念碑があり「日本貨幣発祥の地」とある。小川の対岸の山崩れに和銅露天掘跡という看板があった。山に登ると看板の山崩れの上に出て、V字型の露天掘跡の鉱脈を上に架けた小橋から眺められる。青灰色の硫化銅=輝銅鉱のように見えた。一見して1千立方米の土砂を掘ったと思えた。0.1〜1トンの銅が精製されたとすれば約5gの和同開珎が2〜20万枚だ。
里に下りて今度は武田信玄・徳川家康の時代の銅鉱山跡を求めて再び登山した。標高差200mの山道を登ると、今はただの平坦地である精錬所跡があり、更に登ると手掘りの坑道口が数ヶ所あった。iPhoneを懐中電灯モードにして少し入って見たが、ただ灰色の岩肌の坑道が続くだけだった。
再び山道を下るのが嫌で、逆に登って尾根道の自動車道路に出た。西側には秩父の街並み、両神山、双子山が見え、南には武甲山が見えた。武甲山北面は石灰岩採掘のために頂上までダンプカーが上っている。大震災以来セメント用石灰の採掘が活況だという。南面は全く自然のままだ。私と同年輩のおじさんの話では、子供の頃と山容が全く変わってしまい、御岳神社の1,336mの頂上が削られ、神社も移転して1,304mになったという。
帰宅後Webを漁ると、習った日本史とはかなり違う話になっていた。日本には有史以前から銅鐸や青銅剣があり、銅の精錬が行われていたはずだ。渡来人が秩父で初めて採掘したのは、精錬の必要が無いほど純粋な銅で、その吉兆が喜ばれたそうだ。「熟れた」「柔らかい」ことを古語でニキまたはニギと言い、漢字の「和」で表現した。ニキアカガネ=自然銅を「和銅」と呼んだ。年号は「和銅」だが貨幣は「和同開珎」だ。「和同」は中国古典では調和を意味し、和銅に掛けた命名とされている。
和同開珎を私は「カイホウ」と習ったが今は「カイチン(カイホウ)」とカッコで教えるそうだ。当時の中国の銅銭は末尾が「寶」だったので、上下を除いた「珎」は寶の略字だという「ホウ」説と、「珎」は「珍」の別字とする「チン」説があり、夫々を支持する古文書があるそうだ。
また「富本銭」という銅銭が近年発見され、683年に鋳造と同定されたが、貨幣として流通したという説と、宗教儀式専用とする説があると。
私の常識的仮説は次のようだ。日本最初の貨幣は富本銭で、近江で精錬鋳造したが鋳造量は限られた。秩父で功を焦った渡来人が「自然銅を析出するほどの大鉱脈発見」と報告したので朝廷は財政改善を信じて狂喜し、減税昇給など大判振舞を発令した(史実)。「和銅開寶」としたかったが画数が多いと歩留が心配なので「和同開珎」という鋳型にした(想像)。以上