今年は国際物理年だ。出身のスイス連邦工科大学の教職を希望して拒まれ、スイスの特許庁職員になった独人Einsteinが、1905年に特殊相対性理論を発表して近代物理のドアを開いて百年になるからだ。それを記念して科学雑誌Newtonの7月号は「相対性理論」、8月号は「真空と素粒子」の特集を組んだ。折しも、東大教授(地球物理)を定年退職してすぐNewtonを創刊した竹内均氏の一周忌に、愛弟子の水谷氏がNewtonの編集長を継いだ記念号でもあった。竹内教授はかって、日本語版がまだ無かった頃のNational Geographic Magazineに啓発され、日本でも画像中心の判り易い科学雑誌を作りたいと考えてNewtonを始められたそうだ。なるほど、黄枠のNational Geographicに対してNewtonは赤枠を特徴にしている。私は内容の勉強よりも、判り易いはずがないこれらをNewtonならどう判らせるかに絶大の興味を持って7月号8月号を買った。
内容は期待を裏切らなかった。専門知識のあるうつせみ読者は周知のように、一般相対性原理や素粒子が何であるかを私は承知しているが、本当には理解していない。理解できているはずがないと思われているはずだ。その私でも何となく理解できた感じにさせるから立派だ。Newtonは予め15名のモニタを指名して、企画や原稿の段階で意見を貰ってまとめたという。「なぜこうなるんですか?」というモニタの声でもし書き直したとしたら、素晴らしいことだ。
Newtonに限らず「判らせる」には幾つかの定石がある。
1.よく判った人が判らせる。あるいは、説明者がよくよく勉強して十二分に理解する必要があるということだ。本当に判った人の話はエッセンスを平易に解説して判りやすいことは日頃よく体験する所である。よく判っていないと次項以下が出来ないからだ。
2.大筋を説明する。読者や聞き手にとってどのレベルでの理解が必要であるかを考えて必要かつ充分な説明をする。説明不足でも、余分な説明をしても判り難くなる。「判った積もりにさせる」ことと紙一重だが、「積もりにさせる」ことが「必要レベルで理解させる」ことならは悪いことではない。Newtonはこの2号で物理学者を養成するつもりはない。
3.善意で誤解させる。勤務地の近くにパペラという印度料理店があり、時々昼食に行く。距離は近いのだが間に西友の本店が立ち塞がっているために道は遠回りになる。パペラへの道を聞かれたとして、a「西友のど真ん中を突っ切って行った所」、b「但し西友は通り抜けられないので左右どちらかを迂回する」と説明すれば「ラーメン屋の角を右折して...」という説明よりも判り易い。説明aの段階で、聞いた人は西友を通り抜けできると誤解し、しかしそれで位置を瞬時に理解できる。聞き手が行くつもりがないなら、説明aで誤解させただけで済むかも知れない。専門分野を説明する上で同様なテクニックがしばしば有効である。
4.身近な体験から延長する。同じ道案内でもよく知っている領域から説明すれば、判り易い。2 + 1 が難しい子供でも「饅頭を2つ持っている時にもう1つ貰えば...」ならピンと来る。
5.文章より絵で。複雑な内容が盛り込まれた文章から論理構造を抽出して頭の中で再構築するのは実はかなり難しい作業である。二次元三次元に展開された絵から論理構造を取り出す方がずっと容易だ。また絵の方が文章よりも「身近な体験」に近い。
6.専門知識を抑制し専門用語を使わない。職場で私が技術用語を使わないで或る製品の説明文章を作ってあげると、非技術者の社員がそれに技術用語を盛り込むことが時々ある。折角技術の一端を勉強したのだから開陳したい気持は理解しつつも、検討審議を左右しない専門用語の導入は公害だなあと思う。必要な専門知識はキチンと導入し説明すべきだが。
7.最後に「俺が判らないのは判らせ方が悪い」と常に開き直る人には救いはない。例え下手な説明であっても「判らん」と威張るものではない。「このバカ」と例え心中では思っても真面目な説明である限りは、「申し訳ないが理解でない」という態度でありたい。 以上