Jean-Michel Cousteau氏という高名な仏人海洋学者が、我々の客船で講義を行った後の質疑応答で、聴衆から「日本の調査捕鯨をどう思うか」という質問が出た。氏は「良くない。過去10年に2-3件しか論文を出していない。調査に名を借りた商業捕鯨で、利益のための捕鯨だ」と回答した。200名ほどの聴衆は8割方米人で日本人は私1人だったから、私はコメントすべきだと思った。すぐ立って「その件で」と発言すれば立派だったのだが、全員を敵に回すことなくうまく英語で主張できるか瞬時には自信が無く、頭の中で或る種の予行演習をしてから手を挙げた。しかし挙手する人が他にも居て遂に当てて貰えなかった。「挙手したが発言させて貰えなかった」という言い訳を得て本音ではホッとした自分を蔑む自分が居た。
結果的に発言しなかったのだから、今更何を言っても犬の遠吠えだが、瞬時の予行演習の結果私は次のような発言をしようと思っていた。以下に日本語で書くほど英語でうまく表現できたか否かは別問題として。
「私は国際人のつもりで居る。国際人としての私は日本は捕鯨を止めるべきだと考えている。しかしそれは捕鯨反対論に私が賛同しているからではない。講師が「利益のための捕鯨だ」と言われたことには同意するが、日本の大きな経済の中では極小の人口の極小の経済活動で、止めても痛手は小さい。鯨肉を食べたいと望む日本人もあまり居ない。一方で捕鯨反対論には合理性が無いと私は思う。ただ合理的であろうとなかろうと、隣人が嫌うことをやるべきではないという意味で私は捕鯨に反対するのだ。
捕鯨反対論の根本には、鯨は愛すべき動物でそれを殺戮するのは許せないという感情があり、それは感情論としては大いに理解する。しかし魚なら殺戮してもよくて、牛肉や豚肉はよいが鯨肉は駄目という論理には合理性が無い。中国では犬を食べる。食生活はその国ごとに異なる。
19世紀から20世紀の前半まで、西洋諸国は捕鯨砲で大量に捕鯨をして鯨を減らした。しかも油だけを採ってそれ以外は全て海洋投棄した。日本では数千年前(縄文時代)から捕鯨は行われていた。仏教の影響で1世紀半前まで牛肉など四足の動物は一切食べなかったから、鯨は貴重な蛋白源だった。Norwayから捕鯨砲を習って日本も大量捕鯨に参加したが、日本では常に肉・骨・皮からヒゲに至るまで完全に利用してきた。
国際捕鯨委員会(IWC)は、減少した鯨の資源保護のために捕鯨の割り当てを目的として設立されたが、捕鯨に関わりが無く鯨の殺戮に感情的に反対する国が多数参加して資源保護ではなく捕鯨を阻止する組織になってしまった。その環境の中で僅かに可能な調査捕鯨を日本は続けている。
だから私は捕鯨反対論を感情的には理解しつつも、合理性に欠けると考えている。Sea Shepherdのように実力行使で捕鯨を妨害するのは、本人達は英雄気取りで達成感があるかも知れないが、日本人をますます国粋的な感情に追い立て結果的には逆効果だと思う。同じ金を使うなら、鯨は愛すべき動物だというVideoをWebに掲載し、日本で広報活動を展開するのが近道だ。今日本人の多くは鯨など見たこともなく、食べたこともなく、鯨に関しては無関心だが、Sea Shepherdの暴挙には怒っている」と。
調査捕鯨を担当する日本鯨類研究所(鯨研)のWeb頁には、査読付き学術雑誌に発表した英文論文が2008年だけで6件掲載されており、10年に2-3件はウソ臭い。しかし商業捕鯨禁止を拒否するNorwayが年数百頭捕獲しているのに対して、日本は調査捕鯨で2008年に千三百頭獲った。18年続けている。調査は「建前」で商業捕鯨が「本音」と見るのが常識的だろう。
IWCに代表される国際社会と日本は戦争状態と私には見える。IWCは日本の調査捕鯨は怪しからんと考え、日本の提案は意地になって全て拒否している。日本も脱退をほのめかしつつ、意固地になって調査捕鯨頭数を近年倍増した。それで日本が守ろうとしているものは何か? 鯨研は水産庁の重要な天下り先で年数億円の補助金を得ている。捕鯨船運用会社もある。関係者が鯨肉を山分けした醜聞もあった。国民は、IWCも反捕鯨団体も怪しからんという巧みな国粋主義的世論誘導に乗せられ、欧米の対日感情を犠牲にしつつこの一部の特権を守っていることになっていないか。 以上