「人はなぜ働くのか」という問題を解き明かす面白い実験を私はしているのだと最近ふと気付いた。再び働き始めてまもなく1年になる。
会社が人を働かせる上でインセンティブとして用意するものが3つある。会社員から見れば、まず働かないと食えないという意味で、あるいは働きが悪いとクビになるという意味で(1)食うための金である。あるいはより良い生活をしたいという(2)生活向上欲である。また働いて業績を上げれば会社が昇進で報いるから(3)昇進欲が満足される。
若い年代では(1)の重要度が大きい。昔は私も若さにまかせて月に2-3度徹夜してその残業料が嬉しかった。月給だけでは新婚生活が支えられず、大学受験生の英数答案用紙の通信添削もやった。大企業では終身雇用制のおかげで働かないとクビになるという恐怖は働かなかったが、後に米国起業会社で働いた時にはそれは意識した。何時しか食うにはあまり困らなくなるにつれて、食い扶持の意識は薄らいだ。特に今の私にはその意識は皆無である。大体給料を口座からまだ一度も引き下ろしていない。
日本企業の給与体系ではよく働いて給料やボーナスを上げて貰ってもその差額は知れている。だから収入増のために働くという(2)の意識はほとんど働かなかった。東芝本社の仕事より東芝情報システムの仕事の方がやり甲斐があるし東芝グループのお役に立てると会長社長と幾度か折衝をした時に、給料は下がるけどいいかと言われたが、ほとんど意に介さなかった。しかし米国起業会社に転職した時にはStock Optionによる財産形成の可能性を強く意識した。そういうメリットでも無いと転職を正当化できないような気がした。Stock Optionは一時は紙屑かと思われたが、幸いうまく展開して一度だけ多摩地方の納税者名簿に載った。おかげで現在の私には生活向上のために働くという意識は皆無だ。
幸運にも若い頃の私は昇進ではあまり苦労しなかったので、(3)昇進のために働くという生活の知恵が身に付かず、昇進は結果だと傲慢にも考えていた。大企業で働くからには昇進への努力がもっとあっても良かったかも知れない。人の価値は年齢の上下ではないと思っている私は、相手の卒業年次などあまり頭に入らない。しかし後輩として接してきた人が上司になるのは困る。そうでもない限り自分が昇進したいという気持は極めて弱かった。まして米国起業会社に転出してから今に至るまで、昇進の可能性がある職位ではなく昇進のために働くという意識は全く働かなかった。
東芝情報システムに居た時、一部年配者の存在が組織の活力を殺いでいることに気付き、それらの人を「年増区」に移して事業部から外し組織を活性化した。終身雇用制のおかげで定年までクビにはできない。そこそこに生活が安定し、しかし昇進は諦めた人が、会社として最も御し難い。新技術や新しい仕事の仕方を学ぼうともせず抵抗勢力化する。と思ったものだ。上記の3つのインセンティブが全然利かない人達だ。ところで先日ふと気付いたのだが、よくよく考えたら今は自分自身がまさにそういうインセンティブを欠く「御し難い」状態になっているではないか。
そのためか私は今、特別な仕事がない限り休日出勤も残業もあまりせず、酒を酌み交わして仲良くなる努力も怠っている。言い訳をすれば、それらが私に期待された役目ではなかろうとも思うし、老骨に無理を強いてダウンしては反って申し訳ない。それに正直に言えば愛妻と過ごす時間を大事にしたいという意識も働く。だが毎日9-10時間は比較的真面目にやっているし、勤労意欲は高く、自宅で仕事をすることも多々ある。他の人が1時間ではできない仕事を私なら1時間以内で出来るという自惚れもある。結構好奇心もあって、新しいことを勉強したりもする。
好奇心は生まれつきの性格としても、インセンティブが何もないのに何が私を駆り立て、かっての「年増区」の人達とは少々違う行動をさせているのだろうか。よくよく自己分析するとそれは「誇り」ではないかと思うのだ。遂に松下も耄碌していい加減な仕事をするようになったと言われたくないというサモシイ心ではないか。いや人間国宝のおやじだって同じかも知れない。いよいよ俺も職人の域に達したか。 以上