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短編随筆シリーズ「うつせみ」より代表作 Photos of flowers, butterflies, stars, trips etc. '96電子出版の句集・業務記録

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うつせみ
2002年 7月17日
            山下清の五十三次

 山下清画伯が東海道五十三次を描いたと聞いてはいたが、ついぞその絵を見たことがなかった。この度清瀬市の郷土博物館がそれを展示していると聞いて飛んで行った。料金を払おうとしたら「もしかして65歳以上でしたら無料なんですけど」と言われた。私は「そうです、2人ともそうです」と喜んだが、ワイフはふてくされた。

 五十三次と両端の計55枚の絵のほとんどは紙に黒いフェルトペンで描いた素描画で、一部は素描画をもとに同じく白黒のLythograph=石版画になっていた。その一つ一つに200字ほどの画伯のコメントが付いていて、これが絵以上に面白かった。画伯が本当に書いたコメントかどうかはどこにも書いてなかったから、多分一部は画伯の口述筆記であったとしても、一部は誰かの創作ではないかと疑った。一部入り繰りはあるものの、ほとんど伝統的な五十三次の町の現代の姿を描いたものだ。但し広重の絵柄や場所には全く拘らず、それぞれの町の中で気に入った場所と構図を選んでいる。日本橋は騒然として画伯の絵心を刺激しなかったので皇居前に入替え、保土ヶ谷は第三京浜、藤沢は遊行寺、箱根は杉並木、と続く。

 面白いことに画伯は写生をせず、ほとんどスケッチもせず、風景を超能力的な記憶に留め、後日思い出して描いたそうだ。風景をデジカメで撮影してから油絵にする私と比べては不遜だが、全く対極である。不遜ついでにもう一つ言えば、私が油絵を好むのは気に入らぬ部分をナイフで削り取ればまた新規まき直しで描けるからだ。紙にフェルトペンでは全く修正がきかない。私は描き上げた絵を眺めて淋しく感じた近景に木を一本加えたりするが、フェルトペンでは背景が空白でない限りそれも不可能だ。描き始める時に構図が頭の中に出来ていなければならない。それでも55枚の美しい絵が描ける天才に改めて感服した。展示の出口でこの55組の絵と文章が文庫本になっていたことを知った。
   裸の大将遺作東海道五十三次 山下清 小学館文庫#476

 皇居前の絵は丸ビルか郵船ビル辺りからの風景だ。画伯はスケッチするでもなく半日もビルの屋上でブラブラして頭の中のデジカメに記録していたそうだ。寒い日だったらしく次のようなコメントがついている。「....冬は寒いな。寒い冬でも天皇陛下は寒かないな。みんな大事にして寒かないようにしてるんだな....」

 東海道五十三次は画伯の遺作だったのだ。1922年東京浅草生まれの画伯は、1971年に49歳で脳溢血で没するまでの数年をこの制作に打ち込んだ。しかし1969年に眼底出血で倒れてからは制作活動はドクターストップとなっていたので、東京から熱田神宮まででシリーズは未完に終わったかに見えた。しかし遺品を整理し始めると、ドクターストップの間に密かに書き溜めた残りの部分が出て来て、55枚のシリーズが素描画として完成していたのだそうだ。画伯は本来は素描の後で全部石版画にし、次いでカラーの貼り絵にする構想があって、これは80歳までかかる大プロジェクトだという認識だったそうだ。元気だったらもうそろそろ完成していた頃だ。

 画伯の知能障害は先天的なものではなく、3歳の時の高熱の後遺症だったということも今回初めて知った。テレビで時々見た映画シリーズでは、黄門様の印籠と同様に必ず最後に流浪の画伯が旅立った後に描き置いた絵が画伯のものと分かって大騒ぎになる。実際には上記のように頭の中のデジカメに記録しておくだけで、旅行中はほとんど描くことはなかったそうだ。しかし映画のおかげで一宿一飯の恩義に「画伯が描き置いた絵」という贋作が多くて困ると、絵のほとんどを所有する練馬の実弟山下辰造氏は嘆いている。今回の展示は「地元の所有者の好意で30年ぶりに公開」とあったが、清瀬市にとって練馬が地元とすれば同じ人かも知れない。

 画伯は必ずしも描くことが好きではなかったそうだ。「仕事だからな」と自宅で10時頃から描き始め、休憩をとり、5時頃にはピタッと止めていたという。本当はボンヤリ何もせずに居ることが好きな天才だったそうだ。五十三次を描くなどは画伯にとっては「なまけものと言われたくない」一心での努力だったらしい。しかし天才は感動を与える。  以上